楠木に服部

戸井田道三『観阿弥世阿弥*1では、「近年*2伊賀上野在住の郷土史久保文雄氏によって発見されてた上野市の上島家に伝わる文書」(p.16)が言及されている。その「文書」に含まれる「系図」によると、「観阿弥清次を生んだ母は河内国玉櫛庄橘入道正遠の女、つまり楠木正成*3の妹だということになる」(ibid.)! また、「観阿弥は伊賀杉之内の服部信清の三男であり、二兄の夭折後、長谷猿楽に預けられ、そののち、山田美濃大夫のあとをついだ大田家光の第三子として養われた」(pp.16-17)。「世阿弥の母、つまり観阿弥の妻は伊賀小波多の領主竹原大覚法師の女となっており、また観阿弥の伯父服部行心入道の所領が大和結崎にあったとあるから、観阿弥小波多ではじめて座をたてたのは妻の縁によったものであり、のち結崎に移ったのは伯父の縁によると推定される」(p.17)。
伊賀の「服部」といえば、多くの人が伊賀忍者(例えば服部半蔵)を思い出すだろう。ここに登場する「服部信清」や「服部行心入道」はそうした忍者の「服部」と関係あるのだろうか? 『花伝書』の冒頭にも明記されているように、本邦におけるお能(猿楽)の祖は秦河勝ということになっている。伊賀忍者秦河勝を祖と仰いでいるらしい。お能と忍術は秦河勝を祖と仰ぐ同族の中で発展してきた? 

まあ、「この系図が徳川末期の筆写なので、にわかに信用しないほうが無難だとする学者が多い」とはいう(ibid.)。