「個性的」ではなく

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070906/1189061438で、ベネズエラの人名統制政策に触れて、「命名の混乱についての嘆きは日本の産経記者にも共有されているようだ」と書いたが、それに関連しての『朝日』の記事なり;


読める?「七音」「雪月花」 響き優先、今時の名前

2007年10月11日20時03分

 「永翔」「大生」「七音」「雪月花」と書いて、それぞれ「はるか」「ひろ」「どれみ」「せしる」と読む。いずれも実際に出生届が受理された名前だ。法律には読み仮名の規定がないうえ、親は音の響きと漢字の画数を重視する傾向だという。すぐに読めないような個性的な名前を持つ子どもたちは、これからも増えていくのだろうか。

 富山県立山町の夫妻が今年2月、出生届に娘の名前を「稀星(きらら)」と書いた。町から「星で『らら』とは読めないと思うが、いいか」と再考を促された。出生届は現住所のほか、出生地や親の本籍地がある自治体に提出できる。夫妻は、出産した隣の富山市に出すと「親の意向を尊重する」とすぐに受理された。夫妻は「市販の名づけ辞典にあったものをそのまま使ったのに」と不思議がる。

 出産を控えた母親を対象にした「たまごクラブ」(ベネッセコーポレーション)には半年に1回のペースで「季節のイメージ」などを参照する名づけ辞典が付く。紹介されるのは、原則として過去に2件以上受理された読者の実例だ。

 「届け出が受理されるかは各自治体で判断が異なります」と、ただし書きを必ず入れる。

 名前に使える文字は戸籍法施行規則で定められているが、読み方のルールは触れられていない。出生届に読みを記すのは住民票の処理が目的で、戸籍に読み方まで書く必要はないためだ。法務省は「高」と書いて「ひくい」と読ませるといった、およそ連想できない読みの場合は再考を促すよう自治体に求めているが、強制力はない。

 06年度に窓口で5000件を超える出生届を受理した東京都大田区は「使える文字かどうかのチェックが第一。文字が使えるものであれば、親の意向を原則尊重する」と話す。「稀星」を受理した富山市も「『悪魔ちゃん』のように子どもの将来に不利益になりそうでなければ受理する」という立場だ。

 一方、再考を促した立山町は「法務省が求めているし、辞書にない読みであれば、親に必ず確認するべきだ」と話す。 ベネッセ・たまひよ部は、「縁起のいい画数」に加え、「響きのいい音」にしたい親の思いが、本来の読み方にはない漢字をあてるケースが出てくる一因だと分析する。

 「稀星」の場合も、「きらら」という響きがいいと夫が希望し、呼び方がまず決まった。漢字はその後、縁起のいい画数を名づけ辞典から探したという。

 同部の名づけ担当・石原竜也さんによると、「名前の読み・漢字ランキング」を見て、「読みは人気のあるものに、漢字はあまり使われない字を使おう」と考える親も多い。「名前は子どもへの最初のプレゼント。唯一無二のものにしたいとの思いが強いのでは」

 「オーダーメード」で名づけをする会社もある。97年に創業した日本育児研究社(大阪市)は、インターネットや電話で受け付け、「名字に合う画数の名前」などをリストアップ、冊子にまとめて提供している。これまでに約23万件の利用があったという。

 珍しい名前で困ることはないのだろうか。

 「日本の漢字」の著書がある笹原宏之・早稲田大教授(日本語学)は、「なまぐさい」の意味を持つ「腥」を使いたがる親がいると知り、驚いた。「夜空に輝く月と星だからロマンチックだと感じてしまうのだろう。意味を考えず、字面のイメージで使おうとする親が増えているのではないか」と警鐘を鳴らす。

 「日本語練習帳」などの著書で知られる国語学者大野晋さんは「漢字教育が衰退し、漢字の意味を深く考えない人が増えているのではないか。日本語全体がカタカナ化、英語化しているいまの流れの一つと言えるだろう」と話している。
http://www.asahi.com/life/update/1011/TKY200710110252.html

先ず、「すぐに読めないような個性的な名前」と記事にはあるが、違うだろう。「個性的」どころか、命名した当の本人も「市販の名づけ辞典にあったものをそのまま使った」といっているのだから。さらに、『たまごクラブ』も「名づけ辞典」掲載しているという。つまり、こういう名前を付ける人というのは、それを社会的に是認、さらには推奨された名前だという認識で行っていることになる。だから、呉智英はこういう名前を「暴走万葉仮名」と呼ぶが、「独自性・独創性(ホントに独自・独創かどうかはともかく)の追求の果ての「俺様(おれさま)化」である」、「三浦展下流社会』で下流の指標の一つとして「自分らしく生きる」が挙げられているが、暴走万葉仮名にもその「自分らしさ」が感じられてならない」*1といっているのは、或る意味で的外れなのかも知れない。
たしかに、父親の名前の一字を子どもが継承するという日本的な命名の仕方が崩れてきているのは事実なのだろう。そもそも明治維新以来、幼名/通称/名という秩序が上から崩壊させられた。本来ならば、小泉純一郎とか麻生太郎というのは通称であって、名ではありえなかったわけだ。明治以来、日本人は幼名/通称/名という秩序が崩壊したために、生まれたときから実名を晒される存在となった。この裏には、名前に対する呪術的ともいえるタブーもまた衰退したということもあるのだろう。かつては、直接名指すというのは暴力であって、だからこそ、換喩的にその人の官職等で呼んだ。或いは、名を隠すために、通称が使われた。大石内蔵助は通称であり、名は良雄である。このタブーは天皇の名前に関しては生きており、天皇の本名を直接名指すというのは、反天皇制の左翼に限られる。また、世界にかなり普く存在する〈邪視(evil eye)〉信仰のため、幼児は特にヴァルネラブルで、妬ましげな他者の視線によって害せられると信じられていたため、幼名には穢い・賤しい名前が用いられるのも常だった。例えば、幼名に丸が使われるたのはそのためである。
ところで、「万葉仮名」的な名前は(多分国学の影響を受けて)かなり以前から存在していたわけだ。例えば、比古や比呂。上の記事とかで問題になっているのも、日本語において漢字が訓読みという仕方で取り込まれたことの当然の帰結であるともいえるだろう。或いは、漢字というものの可能性のうちである。
さて、冒頭に引いた『朝日』の記事だが、http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/0f58abd4983d8d063c64306b4c4488f8を通して知った。ここでは、記事の引用に続いて、

一般論として、子供の名前へのこだわりは親の愛情ではなく支配欲の現われなんだそうです。特異な名前を付けたがる親は、子供を自分の思い通りにしたいという気持ちが強いそうで、しかし子供が親の思い通りに育つことなどありませんから、それが転じて裏切られた気持ちとなり、虐待にも走りやすいとか。珍名を付けようとするのを止める人が周りにいない場合、その後に虐待があってもやはりそれを止める人が周りにいない可能性も高いそうで。
とある。「なんだそうです」といういきなりの伝聞体には吃驚。ここに読み取れるのは、突っ込まれたときに、誰かがいっていたのを聞いただけで、自分でそう思っているわけではありませんと言い逃れる、亀田の兄貴並みの小狡さである。