何時京都に?

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20130330/1364649053経由で「大石内蔵助・主税の墓 寺坂吉右衛門の墓」という頁;


住吉大社の摂社・大海神社の東側に隣接する一運寺(浄土宗) に大石内蔵助・主税父子と寺坂吉右衛門の墓がある。
 リーダの大石内蔵助良雄(よしたか)は、代々家老職を務める家柄で、1500石の扶持を得ていた。討ち入りの主役であり、映画やテレビでは、恰幅のよい役者がそれを演ずるが、事実は痩せっぽちの小男であったらしい。
 良雄は8歳の頃、朱子学の観念論化を批判して幕府からにらまれ、赤穂に配流された兵学山鹿素行から、その教えを受け、また、16〜7歳頃には、京で伊藤仁斎の堀川塾に学び、武芸は東軍流の剣豪奥村無我より剣術免許皆伝を授かっている。太平の世で、事件が起きなければ、平々凡々の一生を過ごしたと思われるが、事件発生後は城明け渡しから、討ち入りまでまで、性格や意見も違う同志を統率し、目的達成を果たしたリーダーシップ振りには感嘆させられる。45歳で切腹
http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage446.htm
そもそも大坂に大石のみならず赤穂浪士の「墓」があったということを知らなかった。「赤穂義士の墓は、元は、明治の初め廃寺になった住吉の龍海寺にあり、その寺には47士全員の墓があったが散逸し、当寺の住職が残った墓を引き取ったのが、この墓だとのこと」。さてここでは、内蔵助が伊藤仁斎の門に入ったのは「16〜7歳頃」とされている。因みに、佐々木杜太郎『実証 赤穂義士』が「参考資料」として提示されている。
Wikipediaの「大石良雄」に曰く、

また元禄6年(1693年)には大石良雄は、京都にあったようで伊藤仁斎に入門して儒学を学んだという。また前年に奥村重舊に入門し、東軍流剣術を学んでいる。
但し典拠は示されていない。「日本の歴史人物 大石内蔵助」という頁*2では、

大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は、1659年に大石良昭の長男として生まれました。
延宝元年(1673年)に父が亡くなったため、祖父・良欽の養子となりました。

19歳の時に祖父が亡くなり、遺領と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぎました。
また、赤穂藩の家老見習いになり、21歳のときに正式な筆頭家老となりました。

貞享4年(1686年)には、石束源五兵衛の18歳の娘「りく」と結婚し、子どもを授り、元禄6年(1693年)には、京都の伊藤仁斎に入門して儒学も学んだと言われています。

元禄7年(1694年)2月には、収城使に任じられ、松山城に単身入り、水谷家家老鶴見内蔵助を説得して無事に城を明渡させました。

城の受け取りが、無事に完了すると、内蔵助は在番として留まり、翌年に安藤対馬守重博が新城主として入城するまで間、松山城の管理を任せられました。

と書かれている。Wikipediaと同じ。中島康夫『大石内蔵助の生涯−−真説・忠臣蔵』(三五館)という本が提示されているが、参考文献なのかたんなるアフィリエーションなのかはわからず。
http://www.ne.jp/asahi/sachiup/sugimoto/nikki03.html 安岡正篤『運命を開く』を引用して曰く、

伊藤仁斎のところへ、山科に閑居しておった大石内蔵助が聴講に出かけるが、
  よく居眠りをする。同席の者が肝に障えて、仁斎先生に
  「どうもあの男、居眠っておっていけませんが・・・・・」と注意した。
  仁斎先生は「いや、気にかけなさるな。眠ってはおるが、あの人は出来ておる」
  と言ったという、うますぎるような話があります。
「山科に閑居」というと、〈松の廊下〉以降であり、大石にとっても仁斎にとっても晩年だ*3
さてさて。