仁斎の弟子たち(メモ)

文明と野蛮の衝突―新・文明論之概略 (ちくま新書)

文明と野蛮の衝突―新・文明論之概略 (ちくま新書)

俵木浩太郎『文明と野蛮の衝突』*1から。
伊藤仁斎*2の弟子筋について;


彼の教えを求めるものは公卿層にも数々あったようであり、朝廷からの相談事にも応じていたようです。また町人でも井原西鶴などが彼の門に学びました。その彼の門人中、特筆されるべきものは赤穂藩城代家老にして後に浪人し、主君の敵・吉良上野介を討ち取った四十七浪士の頭領、大石内蔵助良雄でしょう。彼が仁斎の講義の最中居眠りをし、他の弟子がそれをなじったところ、それを聞いた仁斎が、いやあれは並みの器量の人物ではない、大仕事をやってのける器であるといってとりなしたという逸話が『先哲叢談』にあります。これは疑うむきもある話なのでありますが(略)
四十七士のうち門人であると確証があるのは京都留守居役小野寺十内秀和です。彼の係累で討ち入りに参加した者に姉の子・大高源五忠雄、その弟にして小野寺家をついだ幸右衛門秀富、源五の姉の子、岡野金右衛門包秀などがあります。討ち入りに際しては彼十内は大石の参謀格の働きをいたしましたが、平時古義堂にあるとき仁斎ならびに長男東涯も彼と親しい交わりをしていたようです。彼の母の九十歳を寿いで、この父子が十内に贈った詩がのこされております。また討ち入りに参加する志はありはしたものの父の反対にあい、討ち入りに先立ち自害することによって己れの操をたてることを得た萱野三平重実(これが歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平のヒントになったとされています)につき、兄長好の請いにより東涯がその伝を草しました。(後略)(pp.151-152)
さらに福沢諭吉の父、福沢百助。諭吉曰く、(百助は)「忙中自から閑あり、一方には深く文事に志して、学流は堀川の伊藤仁斎東涯の経義を悦び、殊に文章を善くして詩も亦あり」(p.154に引用)。