リーマン余波

飯島洋一*1「「人とのつながり」衰退を象徴」『毎日新聞』2022年4月2日


ダニエル・ハーバート『ビデオランド』の書評。「アメリカのレンタルビデオ店の盛衰を考察した文化論」だという。


ビデオ店が斜陽になったのは2007年のサブ・プライム危機*2からだが、2014年に著者が原書を出した頃には「壊滅的な状態」だった。ただし人々の映画を観る欲望は同じ頃に「個別化され、断片化され、かつ力を付与され」たネット配信へと移行する。そしてコロナ禍がネット配信への流れをさらに加速した。元々レンタル店だった「〈ネットフリックス〉が二〇〇七年に導入したストリーミングのネットサービス」を始めたのもサブ・プライム危機の年である。

著者はビデオ以降の映画は「ショッピング」だとする。ビデオ鑑賞は、どこで観たか、何時観たかという「経験」が存在しない上に、映画体験の共同性もない。それはネット配信でも同じである。ただそれでもビデオ店では客と店員の生のやりとりがあり、物質性も残されていた。ネット配信ではそれすらも全て仮想世界なのである。
本書のラストにウィル・スミス主演の映画「アイ・アム・レジェンド」が描かれる。そこでは世界中の人々がウイルスに感染し(感染者がゾンビになってはいるものの)、主人公ロバート・ネビルと犬のサムがいるだけで、マンハッタンはゴーストタウンになっている。劇中で主人公はレンタルビデオ店に入り、無人の店内でマネキンと会話してDVDを借りる。この映画は2007年の公開で、レンタルビデオ店が倒産した最中に製作され公開された。言ってみれば「アイ・アム・レジェンド」は「世界の終わり」と「好景気の終わり」と「ビデオ店の終わり」を描いた物語だった。

動画配信には、他者との生のやりとりは存在しない。著者はネット配信になって「衰退」したのは「公共の場でのショッピング、有形のメディア、商品を在庫する物理的空間としての店と建物、そしてそれらが可能にした社会的相互作用とその価値」だという。
ビデオレンタルがスタートしたのは1977年である。1980年代に市場主義とグローバリゼーションの時代になり、「個人」が最重視されるようになる。ビデオ文化は「個人」の時代に適合し、デジタル配信はコロナ禍の「社会的距離」に適合した。ウイルスが蔓延するように、ネット動画も世界中に配信され続けている。
さて、「映画館」における社会性を巡っては、岡田秀則「他人と一緒に見る夢」*3の一節を再度引用しておく;

もともと映画鑑賞とは、隣席に家族がいようが恋人がいようが、自分とスクリーンとの一対一の体験でしかない。そのことは、年に数百の映画をスクリーンで観た経験のある方になら難なく理解されることだろう。その孤独感を抜きにして、映画を自分の生活に取り入れることはできない。にもかかわらず、いま考えずにはいられないのは、映画館の暗闇の中で、互いに面識のない人々が同じスクリーンを見つめているという単純な事実だ。(pp.18-19)

言うまでもなく、現代の子どもたちは、何気ない日常を送っているだけですでに圧倒的な量の映像体験に晒されている。テレビでもインターネットでも構わない、それら映像の大半は、ひとりひとりが分断された場で享受されている。映画を「コンテンツ」なる言葉に格下げし、その享受の形式を問わない思考は、こうした分断の思想とパラレルである。だから、DVDで鑑賞することを誰もが「映画を観る」と言ってはばからない現在、それでも映画館の闇に意義があるとすれば、それは生活環境もまったく異なる、互いに知らない人たちがスクリーンに向かっているからだろう。確かに映画館に行けば、他の来場者など目に見えない存在であってほしい。なのに一方で、自分以外誰もいない映画館をひどく恐れていることにも気づく。映画は誰だか知らない他人と共有されなければならないのだ。学生時代、場内が煙草くさい盛り場の小屋でフィルムが傷だらけの任侠映画を観ていて、映画内と似た世界に住んでいるであろう方から愉快な俳優論を拝聴したことがあるが、そもそも映画館とはそういう無政府的な空間である。だからいま、大画面で美しい画質と迫力ある音声が享受できるから、という発想でしかスクリーン上映の価値を説明してこなかった自らの不明を恥じている。(p.19)
また、津野海太郎『最後の読書』もマークしておく*4