「映画的な記憶力」の起源

津野海太郎『最後の読書』*1から。
山田稔*2『シネマのある風景』という本に言及しつつ、


山田さんは、パリの映画館で見た映画を八年後に大阪で見逃し、そのあと、ようやく京都の映画館で、ほとんど奇跡的に見なおすことがことができた*3
ことほどさように、ビデオが広く普及するまでは、いったん見逃した映画を見たり、いちど見て感動した映画を見なおしたりするのは、けっしてやさしいことではなかったのです。なにしろ東京そだちの私ですら、高校生のとき感激して見た『ナポリの饗宴』*4をもういちど見るには、ビデオ時代の到来を待つしかなかったのだから。
インターネットはもとより、大阪の『プレイガイドジャーナル』(創刊は七一年)や東京の『ぴあ』(同七二年)にはじまる地域別の情報誌もない。そんな時代だったので、場末の三番館や名画座の情報は、新聞の上映案内や大きな駅の構内に設置されていたポスター壁、あとは映画好きの友人たちの「おい、あの映画、あそこでやってるぞ」といった報告に頼るしかなかった。
そうして知った上映館にバスや電車をのりついでたどりつく。いきおい映画と町と映画館がひとかたまりになって頭に焼きつくことになる。山田さんが『特別な一日*5を語る文章で、ごく当たり前のように、町と映画館の名を一つ一つ明記しているのもそのせい。
ようするに映画館時代の映画とのつきあいは「一期一会」が原則だったのである。そこには、ここで見のがしたらもうあとはない、という緊張がたえずつきまとっていた。
そして、その緊張感に後押しされて、映画的な記憶力というものが、いやおうなく強化される。淀川長治植草甚一小林信彦和田誠といった人たちの、映画の細部についての異様なまでの記憶力。かれらにつづく蓮實重彦川本三郎瀬戸川猛資たちもふくめて、あれはビデオやDVDやネット動画以前の、町の映画館で鍛えたものだったのです。(pp.148-150)
また、

(前略)映画館で映画を見るという行為(上映館をさがす、バスか電車に乗る、歩く、たどりつく、見る、あとで軽く一杯)には、山田稔のいう「自由の感覚」に裏打ちされた特有の孤独感がつきまとう。そうした感覚を、どうやらかれは一九七〇年代に留学先のフランスでしっかり身につけたらしい。すなわち、日本のような「同質社会」とはことなり、あくまでも個人を中心に成り立つ、「異質社会」のフランスでは、

男も女も、老いも若きも。子供たちですら孤独を背負い、自立をねがいつつ他者との結びつきを失うまいとして生きている。私がパリの映画館のスクリーンでくり返しみたのはそのような孤独と連帯の間でゆれる人間のドラマだった。その感動を通して自立した個人像が私の胸のうちで美化され、それへの憧れがふくらんでいく。そしてその憧れ、あるいは郷愁をいだいて今日も映画館の暗がりへもどって行く。(「パリ――シネマのように」)
(pp.150-151)