発端は彼女だった

白井聡*1「建築が映すハイパー資本主義の自壊」『毎日新聞』2020年6月13日


ちょうど1年前に発表された、飯島洋一『アンビルトの終わり』の書評を2021年7月に読みつつ、思わず苦笑してしまった。


ところで、「アンビルト」とは、建たない、あるいはそもそも建つことが想定されていない建築を指す。2020東京五輪はまるで「アンビルト」にとり憑かれたかのようだ。発端は、新国立競技場の設計コンペで、「アンビルトの女王」ザハ・ハディドの案が当選したところにあったかに見える*2(略)ハディドは自らのプランの後を追うかのように急逝し*3、ついには新型コロナがとどめを刺す。ハディドの新国立のみならず、東京五輪そのものが「アンビルト」に終わる方へと向かいつつある。
あと少し抜書きしてみる;

本書の浩瀚さは、「アンビルト」の概念から一転突破することで現代世界を描ききろうとしていることに由来する。建築とは、芸術論の対象であると同時に、政治的現象であり経済的現象でもある。したがって、建築は本来総合的にしか論じ得ない。本書の圧倒的分量は、この困難な課題が愚直なまでに追求された結果だ。そしてその過程で、「アンビルト」の概念が現代世界の全体像をとらえ、いま生じている事態を最も鋭く把握するにふさわしい豊かな概念として立ち現れてくるのである。
また、

「アンビルト」はそもそもユートピアの観念と密接に結びついていた。プロジェクトの実現可能性と絶縁することは、現実上のさまざまな制約との絶縁であり、そこにおいて通常は現実によって拘束される、言い換えれば現実の権力との妥協を強いられ支配される建築家は、自由に理想を提示し現体制への批判を提示することができる。ゆえに、歴史上「アンビルト」の想像力が爆発的に花開いたのは、ロシア革命当時のアヴァンギャルドたちにおいてであった。「シュプレマティズム」*4を標榜して「自然の再現としての芸術の超克」を宣言カジミール・マレーヴィチはその代表的論客・実践家であり、本書は詳しく論じている。