映画−−「連帯なき連帯」

 岡田秀則「他人と一緒に見る夢」『未来』483


岡田氏によると、「ある種の演劇やロック・コンサートのように、[映画館の]観衆の感情が一つのグルーヴを共有することはない」(p.19)という*1


もともと映画鑑賞とは、隣席に家族がいようが恋人がいようが、自分とスクリーンとの一対一の体験でしかない。そのことは、年に数百の映画をスクリーンで観た経験のある方になら難なく理解されることだろう。その孤独感を抜きにして、映画を自分の生活に取り入れることはできない。にもかかわらず、いま考えずにはいられないのは、映画館の暗闇の中で、互いに面識のない人々が同じスクリーンを見つめているという単純な事実だ(pp.18-19)。
また、

言うまでもなく、現代の子どもたちは、何気ない日常を送っているだけですでに圧倒的な量の映像体験に晒されている。テレビでもインターネットでも構わない、それら映像の大半は、ひとりひとりが分断された場で享受されている。映画を「コンテンツ」なる言葉に格下げし、その享受の形式を問わない思考は、こうした分断の思想とパラレルである。だから、DVDで鑑賞することを誰もが「映画を観る」と言ってはばからない現在、それでも映画館の闇に意義があるとすれば、それは生活環境もまったく異なる、互いに知らない人たちがスクリーンに向かっているからだろう。確かに映画館に行けば、他の来場者など目に見えない存在であってほしい。なのに一方で、自分以外誰もいない映画館をひどく恐れていることにも気づく。映画は誰だか知らない他人と共有されなければならないのだ。学生時代、場内が煙草くさい盛り場の小屋でフィルムが傷だらけの任侠映画を観ていて、映画内と似た世界に住んでいるであろう方から愉快な俳優論を拝聴したことがあるが、そもそも映画館とはそういう無政府的な空間である。だからいま、大画面で美しい画質と迫力ある音声が享受できるから、という発想でしかスクリーン上映の価値を説明してこなかった自らの不明を恥じている(p.19)。
「場内が煙草くさい盛り場の小屋」というのは新宿の昭和館だろうかそれとも錦糸町だろうかというのはともかくとして、この短いエッセイを読んで、例えば社会的世界の立ち上がりに関する自分の思考が映画の経験に影響されているところもあるのではないかと思い当たった。ただ、「ひとりひとりが分断された場」における映像の享受ということは、同じ空間における他者の共在という支えを欠いている分、より抽象的な社会的世界の存立について何かしらのヒントを与えてくれそうだ。読書という行為が徹底して孤立したものであると同時に徹底して共同体的なものであるように。

*1:かつての〈フィルム・コンサート〉はどうか。