何故かチョコ・パイの話へ

『朝日』に岩井克人*1へのインタヴューが載っていたらしい;


期待が根拠、それがお金 経済学者の岩井・東大名誉教授

[掲載]2013年05月07日


アベノミクスの下、「次元の違う金融緩和」で、世の中にお金があふれ始めた。株式市場はわき、景気が上向く兆しがでている。「期待」に左右される市場経済は、随分気まぐれにみえる。経済学者の岩井克人・東大名誉教授に、「お金と期待の関係」を聞いた。
 ――人の期待はそんなにあてになりますか?
 「実は、お金と期待の関係は、資本主義の本質にかかわる問題です。3年ほど前にベルリンであった『貨幣とは何か』を討議する学際的な会議に招かれたが、ギリシャ古典の権威の学者の発表が興味深かった。テーマは『なぜ古代文明の中で、ギリシャだけが私たちに近いのか』。ギリシャ悲喜劇は現代人にも感動を与え、民主主義の原型も、哲学も、現代につながる科学もギリシャでつくり出された。彼の答えは、公共的な討議の伝統でもアルファベットの使用でもなく、『世界史で初めて本格的に貨幣を使った社会だった』というものでした。私のような経済学者が言うと我田引水ですが、古典学者が長年の思索の結果、同じ結論に達したことがうれしい驚きでした」
 ――貨幣をつくれる技術がギリシャにはあったということですか。
 「むしろ技術的には遅れていました。金銀の合金で造られていたギリシャの通貨の配合は、バラバラ。それでもどの通貨も、すべて1ドラクマという価値で流通していた。これが貨幣の本質です。つまり、モノとしてはバラバラなのに貨幣として一度流通すると、モノを超越した普遍的な価値を持ちます」
 「では、モノに支えられていないのなら、なぜ貨幣は価値を持てるのか? 『他の人もそれを価値として受け取ってくれるはず』という『期待』に支えられているのです。貨幣経済が誕生したことが、古代ギリシャを普遍性を考える近代社会にしたのです」
 「ギリシャ人は、貨幣を毎日使うことで、混沌(こんとん)とした現実を超越した普遍的な秩序が存在しうることを最初に見いだした。哲学や科学の起源につながる。また、貨幣を持てば人間は共同体的束縛から自由になる。自立した個人を前提とする民主主義を可能にする一方、個人の欲望と共同体の倫理を対立させる悲劇や喜劇を生み出した」
 「お金は『他の人が価値があると信じるはず』という期待のみを根拠とした不安定なものです。他の人が受け取ってくれないとみんなが思えば、その瞬間に貨幣は貨幣でなくなる。ハイパーインフレの歴史が示すように、国家が権威づけしても、お金はただの紙になりえます」
 ――お金に社会が振り回されるように見えます。
 「昔は、少数の天才以外は、金銀貨なら金銀の価値、紙幣ならば国家が支えだと信じていた。ただの信号になった電子マネーの時代になって、貨幣の本質が誰の目にも明らかになっただけです。お金という人の期待以外に支えがないもので動く以上、資本主義というのは根源的に不安定です」
 「リーマン・ショックの時に、金融工学を駆使した投機家こそ、資本主義を不安定にしたと批判されました。その通りですが、実は投機と、自分は無縁だと思ってタンス預金している人でも、お金を使っている以上、この不安定性にかかわっている。モノではなく、お金を持つのは、使えば他人が受け取ってくれることを期待している。それも投機です。資本主義の不安定性は、金融市場の問題というより、お金の本質から導き出されるのです」
 「アダム・スミス流の『見えざる手』に頼れば万事うまくいくという考え方が誤っている理由はこれを見落としているからです。でも、自由を求めれば、資本主義しか選択肢はない。リーマン・ショックの危機では大恐慌時代と違って、社会主義待望の声がなかった。チャーチルの有名な言葉をもじれば『資本主義は最悪のシステムだ。他のすべての制度を除けば』。政策的につぎはぎをして、だましだましやっていくしかありません」
 ――アベノミクスでも期待に働きかけることが注目されています。お金の価値を下げることを意味するインフレは、緩やかな限り「よいこと」とされている意味とは?
 「資本主義とは、お金があるがアイデアはない人が、アイデアはあるがお金がない人にお金を貸すことによって、アイデアを現実化していくシステムです。デフレの時は、お金を持っているだけで得する。人々はお金それ自体に投機し、貸し渋りが起こった。インフレの期待は、人々をお金それ自体への投機から、アイデアに対する投機、さらにはモノに対する投資に向かわせるのです」
 「そういう意味で『期待』によって、お金がお金になるだけではなく、経済そのものに大きな影響を与える。経済政策を巡って『期待だけで実体が伴っていない』と言われますが、貨幣を伴う経済にとって、期待とは本質そのものとすら言えます」(聞き手・高久潤)
http://book.asahi.com/booknews/interview/2013050800012.html

古代希臘の話は面白い。
ところで、岩井氏の『貨幣論』において、理論的極限としてハイパー・インフレーションが論じられていた。『貨幣論』が刊行されたときに、貨幣というのは抽象的な価値が表現される媒体にすぎないので、ハイパー・インフレーションというのは価値の表現が別の媒体に移行する事態ということなのではないのかという批判があったように思う。たしかに(例えば)日本円の信用がハイパー・インフレーションによって失墜しても、経済活動が行われる以上、価値は別の媒体で表現されるようになるだけだろう。それは人民元かも知れないし、米ドルかも知れないし、煙草かも知れない。蘇聯崩壊前後の露西亜でもそうだった筈。さて、既に閉鎖されてしまった北朝鮮の開城の工業開発区*2で某韓国企業が労働者のおやつとしてロッテのチョコ・パイを配ったところ、すぐに食べてしまわずにチョコ・パイを別の品物と交換する人が出てきた。ひとつの〈貨幣〉が生成し始めたと言えるかも知れない。そういうニュースが昨年あって、ロッテのチョコ・パイは美味いといったら、誰かからお前の味覚は北朝鮮の労働者並みだねと妙なところで朝鮮人認定(笑)*3されてしまったということがあったのだった。
貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)