ライヴを巡ってその他

既に旧聞に属すことだが、「教育再生会議」が4月に発表した「『親学(おやがく)』に関する緊急提言」に「親子でテレビではなく演劇などの芸術を鑑賞」という提言あり*1。黒川滋氏、これに対して、


生の芸術なんて東京でしかないじゃないですか。芸能人に囲まれて生活してきた右翼言論人らしい提案ですね。北海道の北見枝幸みたいなところで生の芸術なんてどこで見つけるのでしょうか。
という*2。ところで、驚いたのは、http://d.hatena.ne.jp/sava95/20070430/p3で引かれたやはり『毎日』の記事によると、浅利慶太が「ミュージカルを全国25万人の子どもに無料で見せる。親子で感動を共有してもらいたい」と発言していること。こういう場でも営業を怠らないというのは経営者の鏡か。因みに、劇団四季というのは或る意味でとても革命的だ。その革命性は寺山修司唐十郎を上回るかも知れない。勿論、これに関しては、反革命のスタンスを堅持したいけれど。真面目な話をすると、必然的に生じる子どもの文化資本の格差を少しでも緩和しようとするのが公教育の機能だと思っていたが、今や公教育はそういう機能から撤退して、子どもの文化資本の蓄積は各家族へ自己責任として回付されるのかと思った。
さて、この「教育再生会議」による〈ライヴのすすめ〉に関連して、『毎日新聞』の望月麻紀「子どもの観劇事情:学校、地域で減る機会 少子化や財政難、親の関心も低下」という記事を読んだ*3。これによると、「小中学生が生の舞台に触れる機会は減っている」。また、「小中学校で行われる演劇鑑賞教室」も学校の週休2日制の導入のために減少している。さらに、東京/地方という格差も指摘されている。
ところで、この記事で興味深かったのは、「親子連れでよく観劇をする家族に尋ねると、「事前にあらすじを話しておく」「幼い時から劇場に通い雰囲気に慣れさせる」といった答えが目立つ」ということだ。如何にして「子どもを静かに座らせておく」か。そのためならそうなのだろうなとも思う。しかし、その一方で、荒筋荒筋といっていると、荒筋ばかり気にして大事なものを見逃してしまう愚鈍でつまらない大人に育ってしまうのではないかという危惧も抱いた。演劇においてストーリーとはどうでもよくはないが、最重要なものでもあるまい。ここで、演劇にせよ音楽にせよ講演や授業にせよストリップにせよ、ライヴ*4とは何かということを考えてみる。ライヴがライヴたりうるのは何によるのか。それは他者の身体が自分の目の前に現前しているということだろう。「あらすじ」よりも何よりも、他者の身体が自分の目の前にぽこっと現れていることを経験すること。ライヴと録音・録画されたものの差異はそこにあるだろう。多分、記事で引かれた、トーべ・ヤンソンの『ムーミン谷の夏まつり』の「(劇場は)この世でいちばん大切な家なの。誰でも自分がどんな人になれるかを見せてもらえる(中略)そして、自分がなにものであるかを気づかせてくれる家なのよ」という一節よりも根本的なことだと思う。さらに、自分の目の前にぽこっと現れる身体は(例えば)役者である。「親子で感動を共有」(浅利慶太)する、「一緒に見ることで、思いを分かち合」う(石川嘉輝、「人形劇団ひとみ座の企画・制作担当」)以前に、見知らぬ或いは見知った*5他者の身体が私のUmweltを占め、それらと場所の共有を余儀なくされること。http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061213/1166024435で紹介した岡田秀則氏の思考も参照されたい。

*1:毎日新聞』2007年4月26日、cited in http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2007/04/426_4225.html

*2:http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2007/04/426_4225.html

*3:http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/wadai/news/20070603ddm013100110000c.html

*4:中国語の「現場」という言葉の方が相応しいか。

*5:見知った他者が見知ったままである保証はあるのか。