「館」だった時代

津野海太郎『最後の読書』*1から。


シネコンはもとより、いまの映画館は、そのほとんどが大きなビルの中にある。その上層階か地下。いきおい映画を見るにもエレベーターかエスカレーターを利用することになる。
でもむかしの映画館はビルの一部ではなく、たいていは、じかに地べたにせっした一戸建ての建物だった。おなじ一戸建てでも劇場や公会堂なら、入り口まで何段かの階段をもうけるのがつねだが、通常の映画館は道路から地つづき。ぶらぶら歩いて行って、そのまますっと入ることができる。私の住んでいたあたりでいえば、高田馬場早稲田松竹、目白の白鳥座、池袋の人世坐、板橋の弁天坐など、みんなそう。
その地べたにたつ中小の映画館が、ある時期から、つぎつぎにすがたを消していった。
六〇年代から七〇年代にかけて映画の観客が激減し、八〇年代にはいるや、旧来の大手映画会社の伝統的商法(スタジオ・システム)までがあっけなく崩壊してしまう。自社のスタジオで専属監督が専属俳優をつかってつくった映画を日本各地の専属館で上映する。それがこのシステムの眼目だったから、その崩壊をきっかけに街の専属館やその他の映画館が消えてゆくのは、いわば必然のなりゆきだったのである。
そして消えゆく映画館にかわってビデオのレンタルショップが登場する。それが八〇年代の終わりちかく。
そのころ住んでいた荻窪の書店にもレンタルビデオのコーナーができた。そこの棚に高校時代にいちど見たきり、とうとう再見できずにいたエットーレ・ジャンニーニ監督の特異なミュージカル大作『ナポリの饗宴』のビデオを発見し、そのうれしさをきっかけに自宅でビデオを見る習慣が身についた。(pp.144-145)
ここで名前を挙げられている映画館は、「早稲田松竹」を例外にして、全く知らない。
最初にヴィデオを借りたのが何時なのかは思い出せない。1980年代後半、ヴィデオを借りるよりも、せっせとTV番組を録画することにはまっていた気がする。その頃は、直接視聴されるよりも録画されて事後的に視られることを前提につくられた番組が増えていた。あの『朝生』も当初はそうだったのではないかと思う。