イスラームと社会

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)。第II章「近代が他者のもとから到来するとき」。


基督教世界と同様に、


イスラム世界でも、社会はたえずその姿を宗教に反映させてきました。しかもそれは時代によって、国によって、決して同じではありませんでした。アラブ人が勝ち誇り、世界は自分たちのものだと感じていた時代、彼らは寛容と開放の精神をもって自分たちの信仰を解釈していました。たとえば、彼らはイランやインド、ギリシアの残した遺産の大掛かりな翻訳に着手し、そのおかげで科学と哲学が飛躍的に発展することになったのです。当初は模倣するだけだったのですが、やがて天文学、農業、化学、医学、数学に刷新をもたらそうとするようになります。日常生活に食に服飾、髪型や歌唱の技術において同じことが起こります。流行を引っぱる「カリスマ」さえいたのですから――そのもっとも有名なのがジラブ*2です。
これは一時的な現象などではありません。七世紀から十五世紀まで、バグダッド、ダマスカス、カイロ、コルドバチュニスには、偉大な学者や思想家、才能あふれる芸術家がいたのです。そしてまた、十七世紀まで、いやときにはそれを超えて、イスファハンサマルカンドイスタンブールには偉大で美しい作品がつくられていました。この動きに貢献したのはアラブ人だけではありません。イスラムはその端緒から、分けへだてることなく、イラン人、トルコ人、インド人、ベルベル人へと開かれていたのです。それを軽率だった[と]いう者もいます。というのも、アラブ人はそのなかに埋没してしまい、みずからが征服した帝国のなかですぐに権力を失ってしまったからです。それが、イスラムが説いた普遍性の代償だったのです。あるとき、トルクメン人の戦士部族が中央アジアのステップを駆け下りてきて、バグダッドの門前までやって来ると、改宗を勧告するあの決まり文句を告げることがありました――「アッラーのほかに神なし、ムハマンドは神の使徒である」。彼らがイスラムに帰属していることにもちろん誰も異議は唱えられません。そして翌日になると、彼らは改宗者によく見られるように過度なほどの熱意を示して権力の分け前を要求したのです。政治的な安定という点では、このような傾向は悲惨な結果を招くこともありました。しかし文化的には、途方もない豊かさをもたらしたのです。インダス川の岸辺から大西洋まで、最良の頭脳の持ち主たちがアラブ文明の懐で才能を開花させました。それはこの新しい宗教の信者だけに限りません。翻訳に際しては、ギリシア語をより熟知したキリスト教徒の手を借りることが多かったのです。そして、マイモニデス*3が、ユダヤ思想の記念碑的な作品のひとつである『迷える人々のための導き』を執筆するのにアラビア語を選んだ意味は大きいのです。(pp.77-79)

(前略)自信に満ちているときには、イスラム社会は開放的になることができました。そうした時代から抽出されるイスラムの姿は、今日のカリカチュアのような姿とは似ても似つかないものです。かつての姿のほうが、もともとのイスラムらしさをよりよく反映していると言いたいのではありません。(略)迷うところのない社会は、信頼に満ち穏やかで開かれた宗教に反映されます。自信のない社会は、臆病で偏屈で気難しい宗教に反映されます。ダイナミックな社会は、ダイナミックで革新的で創造的なイスラムに反映されるし、停滞した社会は、停滞した、どんなささいな変化にも抵抗を示すイスラムに反映されるのです。(pp.79-80)

*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/06/115555 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/08/105119 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/11/093009 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/14/160844 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/26/103638 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/30/153427 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/02/16/111008 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/03/08/150307 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/03/23/151113 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/06/15/112057 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/06/23/151148 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/06/26/155654

*2:See eg. “Ziryab: The cultural icon of al-Andalus” https://www.egypttoday.com/Article/4/5901/Ziryab-The-cultural-icon-of-al-Andalus “About Ziryab “ https://www.albustanseeds.org/game/ziryab.html “Ziryab, the Musician, Astronomer, Fashion Designer and Gastronome” https://muslimheritage.com/ziryab-the-musician/ https://en.wikipedia.org/wiki/Ziryab 「誰がビッグバン、ギター、3コースランチを思いついたのですか? 精霊の利点について...」https://ja.airport-consultant.com/kto-pridumal-chyolku-gitaru-i-obed-iz-tryoh-blyud-o-polze-dzhinnov

*3:See eg. Kenneth Seeskin”Maimonides” https://plato.stanford.edu/entries/maimonides/ Jonathan Jacobs ”Maimonides (1138—1204)” https://iep.utm.edu/maimonid/ https://en.wikipedia.org/wiki/Maimonides https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%B3