「部族的」な概念(2)

承前*1

少し時間が空いてしまったが、アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)の続き。
所謂「アイデンティティの「部族的」な概念」(p.40)の悪しき帰結;


(前略)「他者」が自分たちの民族や宗教や国家への脅威だと感じられれば、それを取り除くためになされうることはすべて完璧に正当なものだと思えるのです。かりに殺戮を犯すことになるにしても、それは自分の周囲の者たちの命を守るために必要な措置なのだと確信しているのです。そして、彼らの取り巻きの者たちはみなこの感情を共有しているので、殺戮者たちはしばしば良心の呵責を感じることもなく、犯罪者呼ばわりされることにむしろ驚くくらいなのです。おれたちが犯罪者のわけがないじゃないか、と彼らは言います。だって、おれたちは、年老いた母を、兄弟姉妹を、子供たちを守ろうとしているだけなんだから、と。
身内が生き残るために行動しているのだ。そうした者たちの願いを叶えようとしているのだ。すぐにとはいかなくとも、少なくとも長い目でみれば正当防衛をしているのだ――こうした感情は近年、ルワンダから旧ユーゴスラヴィアまで地球上のさまざまな場所で、きわめておぞましい犯罪を犯した者たちすべてに共通して見受けられる特質です。(pp.42-43)
アイデンティティの「部族的」な概念」と「外部の観察者の視線」(p.44)との関係について。
虐げられた集団への「同情は迎合的な態度に転化する」、「植民地支配や人種差別や外国人差別に苦しんできた者たちが、過剰なナショナリズムや人種差別や外国人差別に走るのを私たちは許容しがち」であること(p.43)。「私たちは不正を非難し、苦しむ人々の権利を擁護していたと思っていたのに、翌日には殺戮の共犯者になっているのです」(p.44)。

そして私たちの視線が、つまり外部の観察者の視線ということですが、このいびつなゲームに混じりあうとき、そして私たちが一方のコミュニティには子羊の役を、他方のコミュニティには狼の役をあてがうとき、気づかないうちに、一方の側には罪はないともう最初から決めつけているのです。最近の紛争で見られたことですが、自民族に対して残虐な行為を犯す者たちもいました。国際世論が即座にそれを敵の仕業だと見なして非難するのは目に見えていたからです。(pp.44-45)