アイデンティティは単一であるが

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)*1の「はじめに」から。


自分を「フランス人」だと感じますか? それとも「レバノン人」だと感じますか?
一九七六年にレバノンを離れてフランスに住むようになって以来、まったく他意はないと思うのですが幾度となく訊かれてきました。私の返事はいつも同じです。「両方ですよ!」。両方の顔を立てようとしてそう言っているのではありません。ちがう答え方をすれば噓になるからです。ほかでもない私という人間を形づくっているのは、このように私が二つの国、二つから三つの言語、そして複数の文化的伝統の境界で生きているという事実なのです。これが私のアイデンティティなのです。自分自身の一部分を切り離したところで、より本物の私になれるわけではないでしょう。
質問してくださる人たちには、だから辛抱強く説明します。私はレバノンで生まれ、二十七歳までそこで暮らしました。アラビア語が私の母語です。デュマを、ディケンズを、『ガリヴァー旅行記』を、まずアラビア語訳を通じて発見しました。そして本当に幸福な子供時代を過ごし、私の小説の着想源となる物語を聞いたのは、私の先祖が代々暮らしてきた山あいの村でした。どれも決して忘れることのできない大切な思い出です。しかしその一方で、私はもう二十二年ものあいだずっとフランスに暮らしています。フランスの水とワインを飲み、日々フランスの古い石造りの建物に触れ、フランス語で本を書いているのです。このフランスという土地が私にとって異郷となることは決してないでしょう。
ということは、半分がフランス人で、半分がレバノン人ってこと? とんでもない! アイデンティティを切り分けることはできません。半分に分けたり、三つに分けたり、細かく区切ったりはできないのです。私には複数のアイデンティティなどありません。ただ一つのアイデンティティしかないのです。このアイデンティティはさまざまな要素から成り立っているのですが、ただ、その〈配分〉が人ごとにまったく異なるのです。(pp.9-10)
そうした問いの前提にあるのは、「各人の「いちばん深いところに」、その人が帰属する唯一のもの、いわばその人の「深い真実」、「本質」があって、それは生まれながらに定まっており変化することはない、という考え方」である(pp.10-11)。その帰結として、

(前略)より複雑なアイデンティティを持つ者が、のけ者にされることになります。アルジェリア人の両親のもと、フランスで生まれた若者は自分のうちに明らかに二つの帰属を持っているわけですから、そのどちらとも自分のものだと認めることができるはずです。いま話をわかりやすくするために二つと言いましたが、彼の人格を構成する要素はもっとたくさんあります。言語であれ、信仰であれ、生活様式であれ、家族関係であれ、芸術の趣味や料理の好みであれ、彼のなかでは、フランス、ヨーロッパ、西洋から受けた影響が、アラブ、ベルベルイスラムから受けた影響と混じりあっています。この経験は、その若者がこれを自由に享受し、自らの多様性を積極的に受け入れてよいのだ感じているのであれば、実り多く豊かなものになるでしょう。しかし逆に、彼が自分はフランス人だと言うたびに、裏切り者、背教者とそしられ、アルジェリアとその歴史と文化と宗教への愛着を示すたびに、無理解や疑念や敵意に出会うとしたら、彼の人生はトラウマに満ちたものになるでしょう。(pp.11-12)
こうした情況は「かなり特殊な例」では決してない(p.12)。「どんな人間のなかでも、多数の帰属の出会いが生じており、そうした帰属がときには対立しあい、胸の引き裂かれるような選択を強いるのです」(p.13)。
ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

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