変わるもの/変わらないもの

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)。第II章「近代が他者のもとから到来するとき」。

イスラムに対して否定的な昔ながらの偏見を(略)くり返し、嫌悪すべき出来事が起こるたびに、そこから、ある民族とその宗教の性質を断定できると信じて疑わない」ことも「すべては遺憾きわまりない誤解から生じたのであって、宗教とは寛容にほかならないのだ」と「執拗にくり返す」ことのどちらも間違っている(pp.60-61)。


ある教義の名のもとに非難すべき行為がなされるとき、それがどのようなものであれ、教義に罪があるということにはなりません。たとえ教義がその行為とまったく無関係だと言えない場合でもそうなのです。私は例えばアフガニスタンタリバンイスラムとは無関係だとか、ポル・ポトマルクス主義とは無関係だとか、ピノチェト体制はキリスト教とは無関係だなどと言うつもりはありません。外から観察するかぎり、こうした個々のケースにおいて、関連する協議が利用されていることは明らかです。確かに、利用されたのはその教義だけではないでしょうし、それがいちばん普及していたものでもないでしょうが、関係の可能性を腹立たしそうに否定することはできません。逸脱が生じたとき、不可避的だったのだと決めつけるのはやや容易にすぎます。それは絶対に起こるはずではなかった。純粋な偶発的事件なのだと証明しようとするのがまったく馬鹿げたことであるのと同じです。起きたということは、それが起こりうる何らかの可能性があったということなのですから。(p.61)

ある信仰体系の内部にいる者が、教義についてのある解釈には納得できるけれど、別の解釈には納得できないということが起こるのはきわめて当然です。敬虔なイスラム教徒であれば、タリバンの行動は彼の進行が教えるところに矛盾している――あるいは矛盾していない――と評価を下すことができます。イスラム教徒でない上に、意図的にあらゆる信仰体系から遠ざかっている私には、イスラムの教えにかなっているものとそうでないものを見分ける資格はありません。もちろん私なりの願いや好みや観点というものはあります。爆弾を仕掛けたり、音楽を禁じたり、女性の割礼を法律化するといった過激な行動は、私のイスラム観と相容れるものではないとつねに言いたいと思っています。しかし私がイスラムをどう考えているかなど、何の意味もありません。かりに私が神学者だったとしても、誰よりも敬虔深く学識があったとしても、私の意見で論争に終止符が打たれることはなかったでしょう。
いくら聖典を読みふけり、さまざまな注釈を参照し、いろんな論拠を集めてみたところで、矛盾する異なる解釈はつねに存在するのです。同じ書物に依拠しながら、奴隷制度を受け入れることもできれば非難することもできる。偶像を崇めることもできれば火に投げ入れることもできる。ワインを禁止することもできれば許可することもできる。民主主義を説くこともできれば神権政治を説くこともできる。あらゆる人間社会は何世紀ものあいだ、その時々のおのれの行動を正当化してくれそうな言葉を聖なる書物から見つけ出してきました。聖書をよりどころとしてきたキリスト教ユダヤ教の社会が、「汝殺すべからず」という言葉は死刑にも適用されうると気づくまでに二、三千年を要したのです。(略)テクストは変化しません。変わるのは私たちのまなざしなのです。しかしテクストは、私たちのまなざしを通じてしか現実世界に作用しません。そしてまなざしがどの文の上でとまり、どの文を見過ごしてしまうのかは時代によって変わるのです。(pp.61-63)
(例えば)「キリスト教イスラム教、あるいはマルクス主義が「本当に言っていること」を問うたところで何の役にも立たない」。問うべきは、「教義の本質ではなく、それをよりどころとする者たちが歴史のなかで取ってきた行為」である(p.63)。