「キリスト教」と「民主主義」


承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)。第II章「近代が他者のもとから到来するとき」。


キリスト教は本質からして、寛容で、自由を尊重し、民主的な傾向を持つものなのでしょうか? こう問われれば、「否」と答えざるをえないでしょう。歴史書を繙いてみればすぐにわかりますが、これまで二十世紀にわたって、宗教の名のもとに、数えきれないほどの拷問や迫害や殺戮が行われ、教会の最高権威から圧倒的多数の信者に至るまで、奴隷貿易や女性の隷従や異端審問のような最悪の独裁を容認してきたからです。ということは、キリスト教は本質からして、専制的で、人種差別的で、退行的で、不寛容なのでしょうか? そんなことはまったくありません。少しまわりを見渡せばわかるように、キリスト教はいまでは、表現の自由、人権、民主主義と良好な関係を保っています。キリスト教の本質は変化したと結論づけるべきなのでしょうか? あるいはキリスト教を活気づけている「民主的精神」は、十九世紀ものあいだじっと身をひそめて、ようやく二十世紀の半ばになって姿を現したと考えるべきなのでしょうか?(pp.63-64)
著者によれば、こうした問い自体が的外れだということになる。すなわち、

(前略)こう問うべきなのです。キリスト教世界において民主主義はずっと必要とされてきたのだろうか? 答えははっきりしています。「否」です。それでもやはり、民主主義が根づいたのは、キリスト教を信仰する社会ではなかっただろうか? この問いに対する答えは明らかに「諾」です。では、いつ、どこで、どのようにして、このような進歩は生じたのでしょうか?(略)自由を重んじる社会は少しずつ定着してきたもののまだまだ不完全であり、しかも歴史を全体的に見ればごく最近の出来事です。教会がこのような発展を遂げたとしたら、それは教会がみずから行なったことではなく、しぶしぶとはいえそうした動きに大筋ではしたがってきたからです。解放の衝動はしばしば、宗教的な思考の枠組みの外側にいる者たちによってもたらされてきたのです。(pp.64-65)
イスラームにおける「寛容」の歴史については、第2節(p.66ff.)で論じられる。結論としては、「イスラム世界は何世紀ものあいだ寛容の最先端を走ったのち、気づけば立ち後れてしまっていたのです」(p.73)。「不寛容の長い伝統を持ち、つねに「他者」と共存することに苦労してきたキリスト教の西洋が、表現の自由を尊重する社会を生み出すことができたのに、長きにわたって共存を実践してきたイスラム世界がいま、狂信主義の牙城のように見える」(p.74)。その理由を問うのが第3節(p.75ff.)ということになる。
ここで、「一七八八年にイスタンブールを訪れたイタリア人N・ビサーニの報告」をスラヴォイ・ジジェク「人権の概念とその変遷」(in 『人権と国家』岡崎玲子訳、集英社新書)からの孫引き*2で示しておくことにする;

パリやロンドンの不寛容を見てきた異邦人は、モスクやシナゴーグに挟まれた教会、カプチン会の托鉢僧と隣り合わせの熱狂的なイスラーム修行僧を目にして驚くことだろう。どのようにして政府がこれほど異質な宗教を懐に受け入れたのかは、理解し難い。この愉快な対比は、恐らくムハマンド主義の退廃的な特性によって生まれたのではなかろうか。さらに仰天することに、寛容の精神は民衆の間に広く普及している。トルコ人ユダヤ人、カトリック教徒、アルメニア人、ギリシア人、プロテスタント教徒が、仕事や娯楽について、あたかも国や宗教を共有しているかのように平和的かつ友好的に会話しているのだから。(Cited in p.134)
こちらはジジェク自身の文章;

早くも十六世紀に、フランスの自然科学者ピエール・ブロンは、「トルコ人はトルコ風の生き方を誰にも強制しない」点を指摘していた。フェルナンドとイザベラが一四九二年にスペインからユダヤ人を追放した際、多くの者が亡命先と信教の自由をイスラーム諸国で得たのも無理はない。非常に皮肉なことに、トルコの大都市において公然と生活を送るユダヤ人の存在に不快感を覚える西洋の旅行者は少なくなかった。(p.134)