様々な「帰属」

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)からの抜書き。

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主要な帰属はたったひとつしかない、と考える人々がいつの時代にもいました。それはどんな状況にあっても他の帰属に優越しているので、「アイデンティティ」と呼んでいいのはその帰属だけだというのです。ある者たちにとっては、それは民族(nation)であり、他の者たちにとっては宗教や階級だったりするわけです。しかし世界中で生じているさまざまな紛争に目を向ければ、絶対的に他に優越する帰属などないことがわかるはずです。自分の信仰がおびやかされていると感じるとき、人はアイデンティティは宗教的帰属にほかならないと考えがちです。しかし自分の母語エスニック集団がおびやかされれば、宗教を同じくする者たちとでも激しく争うのです。トルコ人クルド人は言語はちがうとはいえ、ともにイスラム教徒であることに変わりありません。だからといって両者の衝突は血塗られたものにならなかったでしょうか? フツ族ツチ族と同じカトリック教徒で同じ言語を話しますが、だからといって両者の殺し合いが回避できたでしょうか? チェコ人とスロヴァキア人はともにカトリック教徒ですが、だからといって両者の共存はうまくいったでしょうか?(pp.21-22)

私の一族はもともとアラビア南部の出身です。何世紀ものあいだレバノンの山間部に定住していましたが、移住を重ねていくうちに、エジプトからブラジル、キューバからオーストラリアと地球のさまざまな場所に広がっています。私の一族の誇りは、おそらく紀元二、三世紀頃から、つまりイスラムが勃興する以前から、そして西洋世界がキリスト教に改宗する以前から、つねに変わらずアラブ人でありキリスト教徒だったことなのです*2
キリスト教徒でありながらイスラムの聖なる言語であるアラビア語母語であるという事実は、私のアイデンティティを作り上げてきた根本的な逆説のひとつです。私にとって、この言語を話すことは、日々この言語で祈りをあげながらも、ほとんどの場合私よりもこの言語を知らないすべての人たちと関係を取り結ぶことにほかなりません。ある人が中央アジアにいて、イスラム神学校の入り口で年老いた賢者に会ったとします。その時アラビア語で話しかけるだけで、友の土地にいる気がするでしょう。ロシア語とか英語ではとてもできないような感じで胸襟を開いて話すこともできるでしょう。
この言語は、私たちに、つまり彼にも私にも、そして他の十億人以上の人々にも共通のものなのです。しかも私は、キリスト教に帰属していること――それが信仰に根ざすものなのか、たんなる社会学的な事実なのかは問題ではありません――によって、世界のほぼ二十億人を超えるキリスト教徒と深く結びついているのです。多くの点で、私は他のアラブ人やイスラム教徒とちがうように、他のキリスト教徒ともちがっています。しかし私が両者に対して、一方に対しては宗教的、知的に、他方に対しては言語的、文化的にいているということは否定できません。(pp.24-25)

*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/06/115555 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/08/105119

*2:マアルーフの一族は「ビザンチン的な儀式に忠実でありながらもローマ教皇の権威も認めるギリシア正教派、メルギト派」(p.26)を信仰している。