「ひとつの全体として」

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)から。


(前略)ここまでずっと、アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。ある人のアイデンティティは、自律したいくつもの帰属を並べ上げたものではありません。それは「パッチワーク」ではなく、ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様なのです。たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです。
そのうえ私たちは、いちばん攻撃にさらされる帰属におのれの姿を認める傾向があります。そして、自分にその帰属を守る力がないと感じるとき、それを隠すのです。するとその帰属は自分自身の奥底にとどまり、陰にひそんだまま復讐の機会を待つのです。その帰属を引き受けようが隠そうが、それとなく主張しようが声高に主張しようが、人がおのれのアイデンティティを見出すのはその帰属なのです。問題になっているこの帰属――肌色、宗教、言語、階級⋯⋯――はそのときアイデンティティ全体に広がっていくのです。それを共有する者たちはたがいに仲間意識を感じ、結集し、行動を共にし、励ましあいながら、「目の前にいる者たち」を攻撃します。彼らにとって、「自分たちのアイデンティティを表明すること」は必然的に勇気ある行為、解放的な行為となるのです⋯⋯。(pp.36-37)
この部分を含む項は「心の傷としてのアイデンティティ」とタイトルされている(p.36)。すなわち、トラウマとしてのアイデンティティ。さて、「たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです」ということから、アレルギーを連想してしまった。