「部族的」な概念(1)

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)から。マアルーフ謂うところの「アイデンティティの「部族的」な概念」(p.40)を巡って。


民族的虐殺が起こるたびに、どうやったらこんな残虐なことができるのかと私たちは自問します。なかには、私たちの理解や論理をはるかに超えたすさまじい殺戮もあります。すると、私たちはそれを殺人的な狂気だとか、先祖代々受け継がれてきた血塗られた狂気だとか言うわけです。ある意味でたしかに狂気は存在します。精神の正常な人がある日いきなり殺人者になるとき、それは狂気の沙汰です。しかし、そういう殺人者が何千、何百万にもなるとき、そしてこうした現象が国を越え、異なる文化において、あらゆる宗教の信者においても信仰を持たない者たちにおいてもくり返されるとき、それを「狂気」というだけでは不十分です。私たちが都合よく「殺人的な狂気」と呼んでいるものは、自分の「部族」が脅威にさらされていると感じると殺戮者に変わってしまう、私たち人間の持つ傾向のことなのです。恐怖や不安という感情は、つねに理性的な判断にしたがうわけではありません。誇張されたりパラノイア的になったりすることがあるのです。しかし、ある人々がいったん恐怖を抱くと、実際に危険があるかどうかよりも、恐怖の感情のほうが重視されるのです。
(略)人間のコミュニティはどんなものでも、生きていくなかで侮辱されたり脅かされたりしたと感じれば、殺人者を生み出す傾向を持つものです。そして殺人者たちは最悪の残虐行為に手を染めながらも、自分たちは当然のことを行なっているのであって、天国行きは約束され、身近な者たちの称賛を浴びることになると信じて疑わないのです。私たち一人ひとりのなかにハイド氏がいるのです。肝心なのは、この怪物が出てくる条件が出揃うのを阻止することです。(pp.38-40)
「ハイド氏」が「出てくる条件」のひとつが「アイデンティティの「部族的」な概念」だということになる。それは、以下のような事実認識を否認する。「自分自身の出自や人生のなか」で、「さまざまなものが流れ込み、合流し、混じりあいながら、微妙で矛盾したさまざまな影響が生じている」こと、「私たち」と「彼ら」――次の対決や次の反撃を準備している、戦闘状態にあるふたつの軍隊――が存在しているのでは」なく、「「私たち」の側にも、私とほんの少ししか共通点のない人はいるし、彼らの側にも、私が自分ときわめて近いものを感じられる人たちがいる」ということ(p.42)。