「移民」の普遍化

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)の続き。
所謂「アイデンティティの「部族的」な概念」(p.40)とは別様の、脱「部族」化した「アイデンティティ」概念へと至るために、「境界上のアイデンティティ」(p.47)が注目される。「自分のなかに矛盾するいくつもの帰属を抱えながら、対立するふたつのコミュニティの境界で生きている人々」、「民族、宗教、その他の分断線に貫かれた人々」(p.48)。


そうした人々はほんの一握りしかいない例外的な人たちではないのです。何千、何百万といて、その数は増える一方です。生まれながらに、あるいは人生の偶然によって、あるいはみずからの意思によって、「境界人」である彼らは、諸々の出来事において重きをなし、天秤の棒を一方から他方へとひっくり返しうるのです。そのなかでもみずからの多様性を十全に受けとめることができる者たちは、多様なコミュニティのあいだの「中継役」になれるでしょう。反対に、みずからの多様性を引き受けることができない者たちは、アイデンティティによるきわめて危険な殺人者となって、ひとに忘れてもらいたいおのれの部分を代表している者たちを激しく攻撃するのです。歴史を通じて数多くの例を私たちが目にしてきた、あの「自己憎悪」というやつです⋯⋯。(pp.48-49)
さらに、節が変わって、

私が言っているようなことは、移民とか少数派の言いそうなことなのではありません。しかしそこには私たちと同時代を生きる人々に次第に共有されつつある感受性が反映されていると思うのです。誰もが言ってみれば移民とか少数者になったというのが、私たちの時代の特徴ではないでしょうか? 誰もが自分の出身地とは似ても似つかぬ世界で生きることを余儀なくされています。誰もが他の言語(ラング)や話し方(ランガージュ)、文化、コードを学ばなければなりません。誰もが幼いころからこうだと思ってきた自分のアイデンティティが脅威にさらされていると感じています。
出生地をあとにしてきた者は多いし、出生地を離れずとも、そこにかつての姿を認めることができない人たちも数多くいます――それは、ついノスタルジーに駆られてしまうという人間の魂のつねに変わらぬ性質によるところも大きいでしょう。ですが、それはまた、かつてならば何世代もかかったことが三十年で経験されてしまうような急速な発展のせいでもあるのです。
したがって移民という境遇はもはや単に、生まれ育った環境から引き離された人々というカテゴリーにとどまらず、典型例としての価値を持つようになったのです。重要な帰属がただひとつだけしかなく、絶対にひとつを選ばなければならないのだとしたら、移民は引き裂かれることになります。彼はどうしても、生まれ故郷か受け入れ国のどちらか一方を裏切らざるをえず、つらさと怒りに苛まれながらこの裏切りを経験することでしょう。(pp.49-50)

よそからやって来る移民である以前に、ひとはまず外に出ていく移民なのです。つまりある国にやって来る前に、別の国を離れなければならなかったのです。あとにした土地に対する感情はけっして単純なものではありません。そこを去ったということは、迫害、危険、貧困、見通しのなさなど拒絶してきた多くの事柄があるということです。しかしこうした拒絶には罪の意識がついて離れません。身近な者たちを見捨ててしまったという悔恨、自分の育った家、美しい思い出の数々。そしてまた言語や宗教への深い愛着、音楽、亡命仲間たち、祭り、料理⋯⋯。
同様に、受け入れ国に対して抱く感情もやはり両義的なものです。そこにやって来たのは、むろん自分にとっても家族にとってもよりよい生活を望んでのことです。しかしこの期待には、未知なるものを前にした不安がつきまといます――自分にとって不利な力関係のなかに置かれているのだからなおさらです。拒絶され、侮辱されるのではないかと不安は募ります。いつなんどき軽蔑や皮肉や憐憫にさらされるかもしれません。(pp.50-51)