「ヨーロッパ」というトポス

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)。第II章「近代が他者のもとから到来するとき」。
こういう問い;


(前略)共産主義がロシアをどのように変えたのかについて問うのが当然なら、ロシアが共産主義をどのように変えたのか、この教義がロシアや中国ではなく、ドイツやイギリスやフランスで勝利を収めていたら、その発展の仕方、歴史的な位置、世界のさまざまな地域に与える衝撃はどれほどちがったものになっていたのだろうかと問うてみるのも同じくらい有益なはずです。もしかしたらハイデルベルクやリーズやボルドースターリンは生まれていたかもしれません。いや、スターリンなどそもそも存在しなかったかもしれません。(p.75)
そして、

(前略)キリスト教がローマで勝利していなければ、そしてローマ法とギリシア哲学で作り上げられた土地に定着していなければ、キリスト教はどんなものになっていたのだろう、と。ローマ法とギリシア哲学は、今日では西洋キリスト教文明の支柱のように見えるのですが、両者ともキリスト教文明の支柱のように見えるのですが、両者ともキリスト教が出現するはるか以前にその絶頂に達していたのです。(pp.75-76)

(前略)ただ私は、キリスト教がヨーロッパを作ったというのなら、ヨーロッパもまたキリスト教を作ったと言いたいのです。今日のキリスト教は、ヨーロッパ社会が作り上げたものです。ヨーロッパ社会は、物質的にも知的にも変化を遂げながら、同時にキリスト教を変化させたのです。どれほどカトリック教会は、揺さぶられて、裏切られ、ひどい目にあわされたと感じたことでしょう! どれほど教会は身をこわばらせて、信仰や公序良俗や神の意志に反していると思える変化をなんとか遅らせようとしたことでしょう! しばしば教会は敗北しました。しかしそうと知らないうちに、勝利を収めつつもあったのです。聖書に挑戦するように見える自身にみちた科学に立ち向かい、女性の解放、婚前性交渉、婚外出産、避妊を認める社会の動きに立ち向かい、そして幾千もの「悪魔的な刷新」に立ち向かいながら、日々おのれを問い直すことを余儀なくされた教会は、はじめは態度を硬化させるものの、最終的には思い直して変化に適応してきたのです。(p.76)

西洋社会は自分たちにとって必要な教会と宗教を作り出したのです。ここで「必要」という語を、私は言葉のもっとも十全な意味において、もちろん精神的な必要も含めた意味で使っています。そこには信徒、非信徒を問わず社会全体が関わってきました。心性の発展に貢献してきたすべての人々は、キリスト教の発展にも貢献してきたのです。そして歴史は続くのですから、人々はこれからも貢献していくでしょう。(p.77)