「生得的」ではない

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)から。


アイデンティティはただ一度きりで与えられるものではありません。人生を通じて構築され変形されていくのです。(略)生まれたときにはすでに私たちのなかにあるアイデンティティの諸要素――身体的特徴のいくつか、性別、肌の色⋯⋯――はあまり多くはないのです。しかも、そのすべてが生得的なわけではありません。性別を決定するのはもちろん社会環境ではありませんが、にもかかわらずこの帰属の意味を決定するのは社会環境なのです。カブールとオスロでは、女として生まれることの意味は違います。女らしさ〔feminite〕も、アイデンティティのほかの要素も、経験のされ方はまるで変わってきます。
肌色に関しても同じことが言えると思います。生まれたのがニューヨークなのか、ラゴスなのか、プレトリアなのか、ルワンダなのかで、黒人であることの意味は変わってきます。アイデンティティの観点からすると、同じ色ではないと言えるくらいです。ナイジェリアで生まれた子供にしてみれば、彼のアイデンティティにとってもっとも決定的な要素は、自分が白人ではなく黒人であるという事実ではなくて、例えば、自分がハウサ族ではなくヨルバ族であるという事実なのです。南アフリカでは、自分が白人であるか黒人であるかは依然としてアイデンティティの重要な要素です。しかし少なくとも民族的な帰属――ズールーか、ソーサであるかなど――も同じくらい重要です。アメリカ合衆国では、ハウサ族ではなくヨルバ族の出身だろうが、そんなことはまったく問題になりません。民族的な出自がアイデンティティにとって決定的なのは、イタリア系、イギリス系、アイルランド系というように、とりわけ白人たちにおいてなのです。他方で、先祖に白人も黒人もいる人は、アメリカでは「黒人」と見なされますが、南アフリカではやアンゴラでは「混血」と見なされます。(pp.32-34)

アイデンティティの要素のうちで、本当に生得的なものがどれくらい重要なのかを知りたければ、次のような想定をしてみればいいのです。生まれたばかりの赤ん坊をその環境から引き離し、異なる環境に置きます。そして、そこでその子が獲得しうる多様な「アイデンティティ」を、直面することになる戦いとそうせずにすむ戦いとを比べてみましょう⋯⋯。(略)この赤ん坊は、「彼の」もともとの宗教の記憶も、「彼の」民族の記憶も、「彼の」言語の記憶も持つことはないでしょうし、本来であれば仲間だったはずの者たちと激しく戦っている可能性だってあります。
ですから、ある人のあるグループへの帰属を決めるのは、本質的には他者の影響なのです。彼を仲間にしようとする近しい者たち――両親、同国人、宗教を同じくする人――の影響と、彼を排除しようとする目の前の者たちの影響なのです。私たちのそれぞれが、そこへ行くよう背中を押される道、通るのを禁じられた道、足下に様々な罠が仕組まれた道のあいだに、自分で道を切り開かなければならないのです。人はいっきに自分自身になるのではありません。自分が何者であるのかを「気づく」だけではなく、その自分になるのです。自分のアイデンティティに「気づく」だけではなくそれを一歩また一歩と獲得していくのです。
この学習は非常に早く幼年期から始まります。望もうが望むまいが、まわりの者たちが私たちを型に入れてこしらえ上げるのです。家族の信仰、儀式、態度、慣習を、言うまでもなく母語を、そして恐怖、希望、偏見、恨みを、さまざまな帰属意識と非帰属意識を教え込むのです。(pp.34-35)