「ふたつの極端な考え方」

承前*1

アミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳)の続き。
「移民」の「受け入れ国」についての「 ふたつの極端な考え方」について。


(前略)移民に関する極端な考え方のひとつ目のものは、受け入れ国を、各人が好きなことを書きつけることのできる真っ白な頁と見なすものです。それがひどくなると、受け入れ国を、各人が自分のふるまいや習慣を何ひとつ変えることなく、武器と荷物を手にやって来て住み着くことのできる空き地だと考えるようになります。もうひとつの極端な考え方は、受け入れ国をすでに文字が印刷された頁と見なすものです。そこには、法律や価値や信仰や文化的および人間的な特質がすでにしっかりと書き込まれており、移民はそれに適応すればよいだけだ、と。(p.52)
どちらも「非現実的で不毛で有害」(ibid.)。「受け入れ国は真っ白な頁でもなければ完成された頁でもなく、書かれつつある頁なのです」(p.53)。

各人の歴史は尊重されなければなりません――私はもちろん「歴史」を愛する者として歴史という言葉を使っています。私にとって歴史の概念は、空虚なノスタルジーとか懐古趣味の同義語ではありません。反対にこれは、何世紀にもわたって作り上げられてきたすべてのもの、記憶、象徴、制度、言語、芸術作品、ひとが当然愛着を覚えてしかるべきものを包摂する概念なのです。同時に(略)ある国の未来はその国の歴史の単なる延長ではありません――それがどんな民族であれ、自分たちの歴史を自分たちの未来より崇め奉るのは嘆かわしいことですらあります。未来は、連続性意識のうちに作られていくものですが、過去の偉大な時代においてそうであったように、そこには大きな変動が伴い、外部から重要なものがもたらされることになります。(ibid.)
「移民」と「受け入れ国」の「相互性」;

(前略)私は「一方に対しては」、こう言いたいと思います。「あなた方が受け入れ国の文化を受け入れれば受け入れるだけ、あなた方の文化はその国に受け入れられるのです」。そして「他方に対しては」、こう言いたいと思います。「自分の文化が尊重されていると移民が感じれば感じるだけ、彼は受け入れ国の文化に開かれていくのです」(p.54)

(前略)私が受け入れ国に従い、ここが私の国なのだと考えるなら、この国がこれからは自分の一部であり自分もまたこの国の一部であると思って行動するなら、そのとき私には、この国のさまざまな側面のそれぞれを批判する権利があるのです。同じように、もしこの国が私を尊重し、私のもたらすものを受け入れてくれるなら、私の特性を認め、私のことを自分の一部として見なしてくれるなら、そのときこの国には、その生活様式とか諸制度を支える精神と両立できないような、私の文化の側面を拒否する権利があるのです。(p.55)