「感染症」など

黒川創「「衛生学」の二面性」『毎日新聞』2021年4月11日


軍医/衛生学者としての森鷗外*1


医家として鷗外の生涯を見るなら、最大の転機は、二三歳のとき、陸軍軍医として「衛生学」を修めるため、ドイツ留学に向かったことである。現地での四年間に、先覚者ペッテンコーフェルらに師事しながら、北里柴三郎らとともに細菌学者コッホにも学んだ。
日本社会においても、コレラなどの感染症が、繰り返し流行する時代だった。「衛生学」は、上下水道の整備や施設内での換気を促し、人間が集住を強める近代社会で、健康の回復を図ろうとするものだった。また、軍医という見地に立つなら、日清戦争を経て、日露戦争という近代総力戦に向かっていくなか、戦野での「衛星」の確立は切迫する課題だった。つまり、ここに現れてくるのは、父・静男までの牧歌的な医業とは異質な、「国家」を背に負う医学なのである。
にもかかわらず、のちに、感染症の猛威は、鷗外その人の家庭も容赦なく襲う。次男・不律が、生後六カ月で、百日咳により命を落としたのだ。五歳の長女・茉莉も感染したが、きわどく一命をとりとめた。
これもあってか、森家の子どもらは、衛生には厳しくしつけられた。(後略)
次女の小堀杏奴は父親の「衛生思想」に密かなミソジニー(「女を機械視」)を看取している。

軍医としての鷗外の仕事を見れば、それはさらに鮮明となる。たとえば、一九〇〇年、彼は「西班牙国首都売婬制度」なるドイツ語文献を口述で訳出し、みずから創刊にあたった「公衆医事」誌上に発表する。スペインの首都マドリードでの売春制度が、警察当局の許可の下、どんな仕組みで営まれているかを詳述したものである。この年、日本軍は、中国で起こった義和団の乱(北清事変)に対し、八千の将兵を天津、北京に向けて出兵させる。軍部としては大規模な兵力を外地に移すにあたり、将兵の性欲への対処や健康(性病)管理、駐留する都市の秩序維持の方策などが、差し迫った研究課題となっていた。
昭和の従軍慰安婦制度、例えば海軍主計将校、中曽根康弘*2は明治の森鷗外の影響下にあったことになる。中曽根が鷗外の翻訳を読んだのかどうかはわからないけれど。