「鷗外の文体の一つの到達点」(林望)

渋江抽斎 (岩波文庫)

渋江抽斎 (岩波文庫)

林望*1「史伝ものの文体」『毎日新聞』2020年1月11日


『今よみがえる森鷗外』というシリーズの一環。
鷗外は「ユーモア」において夏目漱石薄田泣菫に及ばず、「随筆」においても徳富蘆花に及ばないという。


しかるに「三十七年如一瞬。学医伝業薄才伸。栄枯窮達任天命。安楽換銭不患貧。これは澁江抽齋の述志の詩である。想ふに天保十二年の暮に作つたものであらう。」という文章を以て始まる『澁江抽齋』に代表される史伝ものになると、それが新聞連載ということも手伝ってか、不必要な衒いが消え、まさに坦々淡々と史実を追うて語っていく文体が確立して、多少詰屈な語彙も古老の懐旧談の如く腑に落ちる。いわば文体の格調と描く対象がよく釣り合って、鷗外ならではの境地に至る。もはや諧謔を弄する必要もなく、史実に忠実に寄り添って、知り得た事柄を平話のスタイルで物語る。行分に漢詩文の素養が滲み出るのは一つの味わいであるが、それとて決して過度ではない。『舞姫*2のような疑似的古文で綴る必要もなく、すらりと書きたいように書いている『澁江抽齋』こそは、鷗外の文体の一つの到達点であったろうと思う。私は、青年時代から、特にこの『澁江抽齋』を愛読して、ほとんど自分の文章の亀鑑ともしてきた。しかるに現今の文学に於いて、文体などということはやや埒外に置かれたの観があるのはいかにも残念だが、かかる時代にこそ、鷗外の文体は今一度玩味評価されなくてはならないと、私は固く信じるのである。
阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

  • 作者:森 鴎外
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/04
  • メディア: 文庫
ところで、やはり『澁江抽齋』を「自分の文章の亀鑑」とした人に須賀敦子がいる。このことを改めて知らしめたのは松山巌須賀敦子の方へ』*3の功績。
須賀敦子の方へ (新潮文庫)

須賀敦子の方へ (新潮文庫)

  • 作者:松山 巖
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/02/28
  • メディア: 文庫
林氏のこの文を読んで、直ぐに岩波文庫の『渋江抽斎』を買ってしまった*4