http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080909/1220977845について、「させていただく」の起源について出典を忘れたと書いたのだが、或る方からhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~okajima/zatu/sasete.txtを御教示していただき*1、丸谷才一『桜もさよならも日本語』で司馬遼太郎の説を引いているのを読んだということを思い出した。
- 作者: 丸谷才一
- 出版社/メーカー: 新潮社
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というふうに、明治と昭和初期の小説における用例が紹介されている*2。これらの用例は特に違和感を感じない。させてあげる/やる主体が容易に特定可能だからだ。というか、授受動詞のノーマルな用法。
樋口一葉『十三夜』あれもお前お蔭さまで此間は昇給させて頂いたし、
夏目漱石『道草』「するとまあただ御出入をさせて頂くという訳になりますな」
森鴎外『高瀬舟』それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。
宮沢賢治『せろひきのゴーシュ』「ぼくは小太鼓の係りでねえ。セロへ合わせてもらって来いと言われたんだ。」
梶井基次『檸檬』蓄音機を聴かせて貰いにわざわざ出かけて行っても、最初の二三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。
有島武郎『小さき者へ』葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさせて貰いたい。
思い出したのは、中国語の給。これはgiveに対応する動詞であるとともに、行為の方向や宛先を示す介詞でもあり、日本語の授受動詞に感じが似ている。また、給には受け身(というより、日本語独特とされる被害の表現。例えば、雨に降られちゃったよとか)を表す用法もある。麦田給大水沖了(麦畑が大水で流されちゃった)。