「歌人」としての

坂井修一「歌人としての足跡」『毎日新聞』2020年11月8日


森鷗外*1は「歌人」でもあった。


歌人としての彼の足跡は、日露戦争従軍時の作品集である『うた日記』(明治四〇年)、文芸誌『明星』に発表した「一刹那」「舞扇」「潮の音」の連作群(明治四〇~四一年)、『昴』に発表した「我百首」(明治四二年)、そして最晩年の「奈良五十首」(『明星』大正一一年一月)に辿ることができる。
特に、「我百首」は、短歌という伝統詩に西洋象徴詩の息を吹き込んだ点で注目される。すでに鷗外は、『於母影』(明治二二年)においてゲーテ、ハイネ、バイロンらの詩を美しい和語に訳し、島崎藤村薄田泣菫、木下杢太郎らに大きな影響を与えていた。
「我百首」は、この流れの延長で、自らの精神生活を五七五七七に綴った大作だが、令和の今読んでも新鮮な感性・知性が横溢していて、私などを刺激してやまない。

「我百首」の作品を創作していた頃、鷗外は千駄木の自宅で歌会を開催した(観潮楼歌会)。与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻、伊藤左千夫をはじめ、北原白秋石川啄木吉井勇斎藤茂吉らが一堂に会し作品を披露・採点する会であり、浪漫・写実の両派が影響を及ぼし合ったことで知られる。これとは別に、山県有朋の意を受けて開催された旧派和歌の常磐会の幹事を長く務めたりもしている。

「我百首」発表から九年後の大正七年から十年にかけて、森鴎外は、帝室博物館長として、正倉院開封のために奈良を訪れた。この三年にわたる訪問を、ひとつにまとめて記した連作が「奈良五十首」だ。鷗外最後の文学作品として知られる。