「小説」ではなく

http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080925/p1


曰く、


しかし、よく考えてみてほしい。ある言葉を漢字で書くか仮名にひらくかは、一々その時その時の判断で決定することが最善である。

 その言葉が出てくるたびに、一回一回考えなければならないのだ。

 そして、文章においては、同じ状況というものは二度と出てこない。だから、ある言葉がそのつど違う表記になっていてもおかしくないのである。

 極論してしまうならば、ある言葉の表記をひとつに固定することは、そのつど表記を考える手間を惜しむ怠惰な方法だとすらいえる。

これには原則として賛成。ただ、小説とエッセイや論文などを含むノンフィクションとは一応区別して考えるべきだろう。或いは、ビジネス文書などの実用的(?)エクリチュールも。
実用的(?)エクリチュールにおいては、原則として表記は統一されるべきなのだろう。ノンフィクションの場合は、読者としては、表記が異なることに対して、書き手の意図を推測するか、或いはたんに書き手は表記について無頓着なんだなという感想を持つかのどちらかということになる*1。ただ、人によっては、全体的なレイアウトを配慮して、ゲラを見ながら、頁がちょっと白いんじゃないかと思えば漢字を増やして、頁がちょっと黒いぜと思えば平仮名を増やすということもあるらしい。
しかし、小説においては事情は異なる。以前、小説の文体について、

「小説」の場合、「文体」は一筋縄ではいかない。「文体」の捏造或いは剽窃というのはそれ自体「小説」の重要なテクニックである。それは、「小説」において直接的に登場するのは作者ではなく語り手であり、登場人物だということによるだろう。作者は自らの(癖としての)「文体」に拘ってはならず、寧ろそれを相対化し、語り手や登場人物に合わせて「文体」を捏造或いは剽窃しなければならない。そうでないと、「小説」の(非現実としての)リアリティが揺らいでしまう。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071203/1196703664
と書いたことがある。これは表記についても当填るだろう。というか、表記というのは文体の一部か。小説では、表記というのは(語り手や登場人物の事情に合わせて)変えていくのが当たり前なのだと思う。だから、小説を引き合いに出して、表記の統一をしなくてもいいというふうに論じるのはあまり意味がない。とはいっても、引き合いに出されている栗本薫にしても森鴎外にしても、語り手や視点がしっちゃかめっちゃかに錯綜する本格的な小説ではなく、それに比べればプリミティヴな小説だといえるのだが。だから、論証のためには、エッセイとか論文を引き合いに出すべきだったのではないかと思う。
ところで、表記どころか、langueを統一する必要もないと思う。ひとつのディスコースの中で、或る部分を日本語で書いて、別の或る部分を英語で書いて、さらに別の或る部分を仏蘭西語か中国語で書くっていうのも、アリなんじゃないか。好不好?
ところで、表記の統一問題ということと直接関係あるかどうかは分からないけれど、丸谷才一先生の「鈍感な青年」という短編があって、これはキュートな〈ボーイ・ミーツ・ガール〉物なのだけれど、違和感を感じたのは、会話が正仮名で書かれていること。丸谷先生が正仮名の合理性を主張して、それを自ら使っているのは支持するけれど、1980年代の若者が正仮名で会話するというのは、小学生が漢字ばかりの言葉で会話するのと同様に、何か可笑しい漢字感じがしてしまう。まあ、それだったら、時代小説で武士や町人は現代仮名遣いで会話するなということになるわけだが。
樹影譚 (文春文庫)

樹影譚 (文春文庫)

*1:取り敢えず、編集者や校正者のチェックの対象となります。