中島敦事件

李陵・山月記 (新潮文庫)

李陵・山月記 (新潮文庫)

柳広司「読書様々――中島敦山月記」」『図書』830、2018、pp.40-44


高校の現代国語の教科書で中島敦*1の「山月記」に遭遇した衝撃。それは現在の高校生でも反復されている*2


『怪談』を取り上げた回で、「近代小説は音読より黙読に適している」と書いた。逆に言えば、近代小説以前は音読が中心だったということだ。ヨーロッパの中世社会を描いたある翻訳小説で、書庫を覗いた主人公が本を黙読している若者の姿に驚愕する場面があって、タイトルも内容も忘れたが、そこだけ妙に印象に残っている。
明治以前の日本でも本(漢籍)は音読が中心であり、年少者は寺子屋の師匠のあとについて漢籍を音読し、あるいは書き写し、最終的には諳んじるのが「読み書きを学ぶ」ということだった。(p.40)
しかしながら、「山月記」はその「近代小説」の傾向に逆らう「音読・朗唱向きの小説」である(p.41)。
中島敦と「山月記」を巡って;

年譜によれば、中島敦が『山月記』を書いたのは三十歳前後。五十になった著者から見れば、本の若者である。
中島敦にとって「山月記」は所謂”デビュー前(に書いた)作品”であり、漢字が多く並ぶ本作が代表作と見なされているせいか、中島敦漢籍の素養を特別視する評論をよく見かける。が、小説家としてデビューするためには先行の作家たちとは異なる新機軸が必要なのは当たり前の話なので、その点をことさらに持ち上げ、讃嘆してみせる風潮はどうかとも思う。取り上げるべきはむしろ、近代小説の流れに反して、敢えて音読に向いた作品で勝負を挑んだ彼の心意気だろう。(pp.42-43)
「デビュー作に相応しい恍惚と不安」――

”これでどうだ”という己の才能への高慢なまでの自負と、一方で”これで本当に書いていけるのか?”という自信のなさ、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」が渾然一体、ないまぜになって作品から滲み出ている。この年齢で読み返せば、ちょっと痛いほどだ。逆に言えば、まさにその痛みこそが若い読者をひきつけ続けている要因なのだろう。(p.43)
また、「小説家としてデビューする前の中島敦の恍惚と不安は、そのまま未来を見つめる高校生の恍惚と不安に重なる」(ibid.)。
名人伝」;

同じ中島敦の作品でも、たとえば「名人伝」では印象はガラリと変わる。
作品の長さはほぼ同じくらい(文庫本で十ページ足らず)、同じように古い中国を舞台に、同じように難読漢字の多い字面、一見同じような語り口でありながら、ここまで印象が変わるものかと驚かされるほどだ。
作中からはあやうさが消え、その代わりに確かな自信に裏打ちされたユーモアと高揚感が感じられる。弓の名人(はた迷惑な変人だ)の、いかにも東洋的な振る舞いを描いた”渋い内容”でありながら、「名人伝」はまぶしいほどの光を湛えている。
理由は明らかだ。
名人伝」は昭和十七年九月以降に執筆されたことが確認されている。同じ年二月、「山月記」(と「文字禍」)が『文学界』に掲載され、中島敦は小説家としてデビューしている。よし、と思ったはずだ。これで書いていける、と。
その頃に書かれたのが「名人伝」だ。デビュー後の高揚と自信が、良くも悪くも、作品を「大人の小説」にしている。五十を過ぎた今の私が新しく読むなら「山月記」より「名人伝」を選ぶと思う。奇想天外、波瀾万丈、随所に仕込まれた白髪三千丈式のユーモアにニヤニヤと笑いながら読み進め、人を食ったような意外な結末に一瞬目を瞬かせる。くすりと笑った後で、もう一度最初の一行から読み返したくなる。そんな作品だ。(pp.43-44)
なお、

中島敦は小説家としてデビューした同じ年の十二月に喘息の発作が悪化し、心臓衰弱のために死去した。まだ三十三歳。書きたい小説はいくらでもあっただろう。彼の無念を思うと、己が五十を過ぎてなお馬齢を重ねていることに罪悪感を覚えるほどだ。(p.44)
実は文体への衝撃ということでは、「山月記」の後に国語の教科書で詠んだ森鷗外の「舞姫*3の文語体の方が強かったと思う*4。漢文脈の文語体小説の極北としての幸田露伴『運命』*5に遭遇したのはもっと後。
阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

阿部一族・舞姫 (新潮文庫)

運命―他一篇 (岩波文庫)

運命―他一篇 (岩波文庫)

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090320/1237517181 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110829/1314590337

*2:柳氏の記述は男子高校生ということを前提としているようだが、女子高校生はどうだったのか(どうなのか)。ジェンダー的なバイアスの問題。

*3:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081027/1225130779 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170519/1495210579

*4:山月記」は高二の教科書、「舞姫」は高三の教科書、たしか。

*5:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110702/1309580556