小堀桂一郎「「教育再生」は国語力養成から」http://www.sankei.co.jp/news/061031/sir000.htm
さすがの森林太郎の遺伝子も孫の代ともなれば、些かの劣化は致し方ないことか。よく鴎外と漱石は並べられて言及されることがあるが、孫の代についていえば、漱石の勝ちということになる。
ただ、このテクストはたんなる爺の繰り言、或いはほかの人の言葉を借りれば「保守派の寝言」*1以上のものなのかも知れない。多分、右の人にとって、人々を何かしらの共同体的なものの下に統合せんとするコミュニタリアンな方向性*2と市場原理主義というかネオ−リベラルな方向性の間を如何にして架橋して統合するのかというのは重要な思想的課題である筈だ。小堀は(それが成功しているかどうか、そもそも成功しうるかどうかはともかくとして)、福沢諭吉を援用しつつ、〈架橋〉を試みている。曰く、
ところで、それに続けて、小堀は言う;
そのための思想的武器として今改めて推奨したいのが福澤諭吉の『学問のすゝめ』といふ古典的教育論である。これは教員養成課程での必読の教科書として採用を要請したい。その心は、児童の知育・徳育の達成度を測るに際しては誰憚(はばか)ることなく競争原理を取入れよ、といふにある。努力する者のみが自分の人生の質を高めることができるのだ、との道理を子供の脳裡に叩き込むこと。それが畢竟(ひっきょう)生徒達の将来の生の充実を約束する指針たり得るのである。
ここでいう「神宝の教へ」というのは、管見によれば、伊勢神道由来の神話解釈であり、さらに言えば神道の衣を被った朱子学であり、つまりは〈漢意〉に属するものじゃなかったかというのはさて措く。kaikai00さんは「教育を瀕死の状態に陥れた加害犯人は、日教組でありゆとり教育であるとすることで、それを取り除けばよいという子ども騙しの、短絡的な解決策を提示し、その後で、古典というノスタルジックな世界へと逃げ込むことで現実の問題を抽象化し、そこでもまた短絡的な解決策を提示してみせる」と批判している。私の疑念はちょっと違う。小堀はさらに
古典的名著の名を挙げたついでに言ふ。教育には目標の手近なる具体性が実に重要である。「人格の完成」とか「個性の尊重」とか、況(ま)してや「真理と平和の希求」などといふ雲をつかむ様な観念的な謳ひ文句は教育上明らかに有害である。折から10月30日といふ奉戴記念日を迎へて、「教育勅語」の説く如き〈父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己を持し…〉の格率の持つ具体性がどんなに教育的に有効であつたか、痛切に思ひ起される。この意味で、人生の価値の最高の範疇(はんちゅう)を説くに際しても、それを「真・善・美」といつた西洋渡りの抽象的で定義困難な観念に求めるのではなく、「正直・仁慈・勇気」といつた具体性を以て示す方が有効である。これは実は「鏡・勾玉(まがたま)・剣」といふ三種の神宝に象徴される日本民族の蒼古の昔からの徳の範疇なのだが、神宝は所詮(いわゆる)象徴なのだから、これらは「正義・柔和・決断」とも、或いは「無私・敬虔(けいけん)・英知」等と適宜幅を持たせて読み替へることができる。いづれにせよこの神宝の教へを奉ずることによつて、我が民族が如何に美しく又内容豊富な歴史を形成することができたか、その事を子供に向つて説くによろしき教材は古典文学の遺産の中に無限に豊富に蔵されてある。
と書いているが、「古典文学」を「道徳教育」の手段に貶めるような人物が「文学者」を名乗ることの是非である。このような態度は、必ずや「古典文学」を痩せ衰えたものにしてしまうだろう。そして、「古典文学」はつまらないものと見做され、伝統というか古人の思惟や活動の痕跡たる「古典文学」と現代人との間の溝はさらに深くなるだろう。
教育に於ける具体性原理の実践として、初等・中等教育では昔ながらの「読み・書き・そろばん」(算盤(そろばん)は基礎的計算力の比喩(ひゆ)である)を最重要視すること。国語では、初等段階に平易な纂訳(さんやく)を用ゐることは構はないが、必ず古典に典拠を有する教材(例へば昔話)を以て読本を編むこととし、現代作家の作品や評論の類は心して避け、なるべく人物の伝記を多く取入れることである。それが又間接的に道徳教育の役割を果す。総じて子供には国語力さへ十分につけてやれば、基礎教育の九割は成就したと見てよい。国語の文章を自在に読みこなす力さへあれば、算数・理科・地理・歴史のいづれも、然るべき教科書を与へてやるだけで、子供はそれらを各自の興味に応じて自分で読みこなしてしまふであらう。教室での教師の負担はその分だけ軽減されるのである。
さて、小堀が推奨している石井勲という人については知らなかったのだが、http://www.konotori.kindai.ac.jp/kindergarten/education/kanji.htmに短いながら、紹介が載っている。また、生前の石井勲氏が理事長を務めていた「日本漢字教育振興協會」*3というのがあるらしい。
*1:http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061031/1162248886
*2:申し上げておくが、コミュニタリアニズムそれ自体を〈右〉であると断言するつもりは全然ない。