1400年忌!

今年は聖徳太子厩戸王*1の1400回忌なのか!

共同通信の記事;


聖徳太子1400年忌法会
大阪・太子町の寺で始まる

2021/4/10 15:43 (JST)



 聖徳太子を祭る廟がある大阪府太子町の叡福寺で「1400年御遠忌大法会」が、10日から始まった。5月11日まで関連行事が営まれる。

 近藤本龍住職は初日の法要で、仏教の興隆とともに「十七条憲法」や「冠位十二階」を制定した太子の功績をたたえるとともに、新型コロナウイルスの感染拡大が収まるよう願った。雅楽師東儀秀樹さんは演奏を奉納した。参拝した大阪府富田林市の50代女性は「厳かですね」と話した。

 大法会の期間中、京都の知恩院や奈良の法隆寺、和歌山の金剛峯寺などから僧が赴き、法要を営む。
https://this.kiji.is/753494978530623488

京都新聞』の記事;

聖徳太子の1400回忌ちなみ功徳たたえる 西本願寺で春の法要
2021年4月13日 20:17


 浄土真宗本願寺派本山の西本願寺京都市下京区)で13日、春の法要が始まった。聖徳太子1400年回忌にちなんで功徳をたたえた。

 宗祖親鸞が「教行信証」を著して立教開宗したことを記念し、毎年この時期に法要を営んでいる。比叡山で修行中だった若き日の親鸞が、洛中の六角堂にこもった時に聖徳太子が夢に現れたという故事が伝わることから、太子は僧侶や門信徒に敬われている。

 法要が営まれた御影堂には本尊阿弥陀仏親鸞の真影と並んで聖徳太子絵像が掲げられる中、「日本仏教のいしずえを築かれた」と太子をたたえてから読経し、念仏を唱えた。新型コロナウイルス感染防止のために、門信徒は一定の距離を開けて参拝した。15日まで。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/547224

「叡福寺」*2真言系の単立寺院で、「太子宗」を称している*3。境内には聖徳太子墓所として宮内庁が治定した「叡福寺北古墳」*4がある。神仏霊場会のサイト*5から写しておく;

この寺にある叡福寺北古墳には、聖徳太子本人とその母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう、? - 621年)、太子の妃・膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ、? - 622年)が眠っているとされている。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇用明天皇推古天皇孝徳天皇の陵もある。

寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたという。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。

叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子墓所があることから、空海親鸞日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参篭したことが知られている。寺は天正2年(1574年)の兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていない。その後、慶長年間(17世紀初め)、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興した。


叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓(磯長陵)に指定されている。明治12年(1889年)、学術調査がなされた。聖徳太子墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。

明治12年(1889年)の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまったため、中を調査する事は困難である。また調査の際に、棺は確認できたが、遺骸は風化して残っていなかったとされている。

墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。平成14年(2002年)に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。平成14年(2002年)11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。

聖徳太子所縁の人物ということだと、小野妹子の墓が太子町内に存在している*6

*1:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20070306/1173157627 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080210/1202661324 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100107/1262876654 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100624/1277341659 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20120207/1328623686 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130505/1367754503 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170310/1489112469 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170311/1489256348 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170314/1489461980 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20170914/1505401684 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/04/30/094551 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/11/19/104356 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/01/08/025057 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/02/16/110336 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/04/16/102820

*2:https://eifukuji-taishi.jp/ See eg. 「叡福寺(南河内郡太子町) ・聖徳太子御廟を守護する寺院と古墳」https://kininarugou.blogspot.com/2018/01/blog-post_16.html https://www.town.taishi.osaka.jp/kanko/taishijikkei/eifukuji.html https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E7%A6%8F%E5%AF%BA

*3:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E7%A6%8F%E5%AF%BA https://shinbutsureijou.net/eifukuji.html

*4:See eg. https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A1%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E5%8C%97%E5%8F%A4%E5%A2%B3

*5:https://shinbutsureijou.net/eifukuji.html

*6:See eg. https://www.town.taishi.osaka.jp/kanko/taishijikkei/ononoimoko_haka.html