http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20100611/1276228143
空海『三教指帰』について。空海の儒家・道家理解の粗さを指摘している。
そのこととは別に気になるところがあったので、引用されている加藤純隆氏の口語訳を孫引きしてみる;
興味深いのは、ここで空海が垂迹論を述べていることだ。佐藤弘夫『神国日本』から引いてみる;
(或る書によれば)儒童と迦葉の二人は共に私たち仏弟子の仲間なのです。人々の冥昧な時代に之を憐れみ、仏陀はまずこの二人を(中国へ)遣わされました。しかし深い真理を受け納める機根がまだ育っていないのを見て、(儒童をして孔子と生ませて儒教を伝えさせ、迦葉をして老子となって道教を伝えさせて)まず天地・陰陽についての表面の真理を説き示させました。ここには未だ(無限の過去から永劫の未来にわたる)十世の道理については、全く言及していません。
ただ、ここで空海が言う「仏陀」は歴史的人物としての「釈迦」であるようだが、本格的な垂迹論では歴史的人物としての「釈迦」も「本地」ではなく「垂迹」にすぎない*1。佐藤氏がいうように、「本地垂迹」論を踏まえないと、中世神国思想を含む日本中世の思想の理解は難しいのだが、体制思想たる当時の顕密佛教への反逆者たる親鸞の思想も本地垂迹抜きには存立し得ない。特にその法然上人や聖徳太子への信仰に関わる限りでは*2。
本地垂迹の論理は、インドと日本とを結びつける論理だったのではない。私たちの覚知できない遠い浄土の仏が、末世の悪人を救済すべくさまざまな形をとってこの娑婆世界に出現するという思想だった。それは娑婆世界の二地点を結びつける論理ではなく、普遍的な真理の世界とこの現実の国土を結合するものだったのである。
したがって、国や地域の違いを超えて、現世に実在するあらゆる聖なる存在はみな彼岸の仏の垂迹だった。日本の神々だけではない。釈迦や孔子・老子といった聖人から仏像・経典までもが、末世の衆生を救うために現出した聖なるシンボルであり、究極の真理の顕現と考えられていたのである。(pp.121-122)
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