矢田部さん

承前*1

聖徳太子の予言〉のネタ本である『先代旧事本紀大成経』は『先代旧事本紀*2を下敷きにしている。推古天皇の勅命によって聖徳太子蘇我馬子がものしたという触れ込みの『先代旧事本紀』も現在では偽書として認定されている書物であるけど、その成立は平安時代初期に遡るという。つまり、偽書といっても由緒ある偽書なのだ。『先代旧事本紀』の実際の著者が誰なのかについては諸説があるわけだが、その候補者の中に矢田部公望*3という人がいる。公望は物部系の人で、物部氏の権威づけのためにこの『先代旧事本紀』を書いたのだと(Cf. 藤原明『日本の偽書*4 )。聖徳太子蘇我馬子物部氏にとっては〈敵方〉の人物だろう。その敵に自らの先祖を礼賛させる書物を捏造するというのも興味深いねと思った。

日本の偽書 (文春新書)

日本の偽書 (文春新書)


矢田部 (やたべ)

造姓、連姓、宿祢姓、首姓、無姓があった。応神天皇の皇女で仁徳天皇の皇后とされる矢田皇女(八田若郎女)の名代部を管掌した伴造氏。
和名抄に大和国添下郡矢田郷がみえ、摂津国八部郡八部郷がみえる。延喜式神名帳大和国添下郡、矢田坐久志玉比古神社の祭神・久志玉比古神は、物部氏族である矢田部氏の奉斎にかかるもので、櫛玉饒速日命と同一視できる。
崇神紀六十年七月にみえる「矢田部造遠祖武諸隅」を祖と仰ぐ。天孫本紀が矢田皇女の母を記紀の所伝から改変し物部氏の出とし、物部大別が后号の矢田をウヂ名に賜ったとするのは、この氏の伝承によるものだろう。
氏人には、推古朝に遣唐使となった矢田部造御嬬、承平日本紀講筵の博士となった矢田部宿祢公望らが知られる。
摂津国の族人には、続後紀の承和二年十月に摂津国人矢田部造聡耳・弟貞成らが興野宿祢の姓を賜ったことがみえる。また、三代実録元慶元年十二月に、讃岐国寒川郡の人、正六位上矢田部造利人が本貫を山城国愛宕郡に移したことがみえ、讃岐国など広く分布したようである。

伊香我色乎命の後裔。(「録」左京神別上)
饒速日命の七世孫・大新河命の後裔。(「録」大和国神別)
物部韓国連に同じく、伊香我色雄命の後裔。(「録」摂津国神別)
饒速日命の六世孫・伊香我色雄命の後裔。(「録」河内国神別)

宇摩志麻治命の八世孫・物部武諸隅連公、十世孫の物部大別連公の後裔。(「旧」天孫本紀)
http://mononobe.webcrow.jp/mononohuyasoudi/clan-dictionary3yagyou.html

さて、矢田部公望の「矢田部」はあくまでも姓としての「矢田部」。勿論姓ではなく苗字としての「矢田部」もある。私は矢田部圭介氏*5くらいしか直接には存じ上げないのだが、有名な「矢田部」といえば静岡県三嶋大社*6の社家の矢田部氏であろう。三島の矢田部氏は「伊豆国造」の末裔を称している。その「伊豆国造」は物部系という説*7と中臣(藤原)と同族という説*8があるようだ。それで、物部説の根拠とされているのはあの『先代旧事本紀』なのだった。ところで、三嶋大社社家が「矢田部」という苗字を名乗り始めたのは案外に新しく近世初頭辺りからだという*9。その頃、『先代旧事本紀』は未だ偽書とは認定されておらず、『日本書紀』並みの権威を有していた筈だ。「矢田部」を名乗るに際して、『先代旧事本紀』を参照して、自らを物部系だと認識していたこと、また物部には「矢田部」という一派がいることを意識していたこと。そうした可能性がなかったとはいえないだろう。