古典主義、規則、ゲーム

伊藤亜紗*1ヴァレリー 芸術と身体の哲学』から。
「公の場で強調して述べたわけではないが、規則を守るという点においてヴァレリーは自らを古典主義の詩人と自認している」(p.130)。


ヴァレリーが規則を遵守したというとき、その規則は詩人みずからが制定したものではない、ということがまず重要である。この事実こそ、ヴァレリーを古典主義者たらしめたものであるといっても過言ではない。詩の規則は、多くの人の手によって洗練され承認を経てきた歴史的産物であって、基準は規則に従う人ひとりのうちにはない。それゆえ、規則に従うことによって、人は自ずとあるひとつの歴史に参加していることになる。古典主義者であるとは、或る規則にのっとった作品制作の実践の系譜に連なることを意味する。系譜は自らの作品の前にも連なるだろうし、後にも連なるだろう。(pp.130-131)

その規則に従う人が参加する歴史とは、その規則の網目がつくるフィールドのなかでどのような振る舞いをすることが可能か、その可能性を汲み尽くす集団的な実践の歴史である。ある規則にのっとって詩を作ることは、過去に同じ規則にのっとってうみ出された詩が展開し残した可能性を展開することであるし、また未来に作られるだろう詩に対して、挑戦すべき先例になることなのである。この意味において、古典主義における規則と作品の関係は、チェス等のゲームにおける規則とプレイの関係と似ている。チェスの比喩は先に登場人物の扱いに関しても登場したが、詩作の分析においても、ヴァレリーはこの比喩を頻繁に使う。(略)ここではさしあたり規則とプレイの歴史の関係を説明するために、この比喩が用いられている。(pp.131-132)
これは保守主義というのを理解するためにも役立つ。というか、保守主義の主張が妥当性を持つのは、それが保守すべき伝統が今引用したような条件を満たしている限りにおいてだろう。