14歳の物語

布のちから 江戸から現在へ (朝日文庫)

布のちから 江戸から現在へ (朝日文庫)

エヴァンゲリオン〉も樋口一葉*1の『たけくらべ』も14歳の物語だったのだ。
田中優子*2『布のちから』から抜書き。
たけくらべ』の中で、雨の中、下駄の花緒が切れた信如に美登利は「紅入れ友仙」の「端切れ」を渡そうとするが渡すことができず、結局その紅色の端切れは「可憐しき姿を空しく格子門の外に」放置されてしまう(See pp.175-177)。


このごろでは殺人まで犯す一四歳とは、人間に普遍的なこの「実現されない情熱の哀しさ」を、十分に理解できる年齢であり、ただし、それを言葉にできない年齢なのである。十全に感じ取りながら言葉にできないというもどかしさを、『たけくらべ』は見事に描いた。現実の身の丈や実力にそぐわないプライドの高さ、男になり女になる過程の、自分をもてあます情熱、言語化できない幼さ、それがゆえに起こる諍い、いらだち、怒り、哀しさ、ぶつけることしかできない表現の物足りなさ。一四歳の問題はすべてこの中に書かれてしまった。
しかし今の一四歳と違うのは、彼らが生活上の「運命」を担う覚悟をしていることであった。だから、雨の中に放置され、泥にまみれてゆく紅色の端切れは、吉原の遊女になる美登利の明日からの運命、と考えることもできる。そして僧侶となる信如の運命は、それを受け止めることができない。ただし彼らの運命は決して社会や親からの押しつけではなく、自ら誇りをもって選び取ったものであった。自己決定とは、それほど甘いものではないことも、この雨に打たれる端切れを中に現れている。(p.180)
曰く、

(前略)端切れは着物ではないので、しっかりした形をもっていない。また、それを着る人間の感性や存在感を表すわけではない。つまり、基本的には何も表現していない。しかしながら、それをつかみ、投げ、見る人間が現れた時、端切れはもとの形である着物の色彩と文様の全体を想像させ、それをまとう人間すらも想像させる。紅色で染められた紅葉の着物は、それが着物の全体であったなら、人の身体を燃えるような炎の色で包み込み、その身体は必ずや若い女性であるはずだ。その端切れが泥の中に放置される時、それ身体性をも暗示する情熱のコノーテーション(含意)と化し、泥と対比されてあまりにも鮮やかであるため、その情熱が雨に打たれながら放置されるそのさまは、信如でなくとも見るに忍びない。(pp.179-180)
ここでは、2つのfragment、テクストの「断章」と「端切れ」が重ね合わされて、論じられている。