言葉を介して絵を観る

川内有緒「全盲で美術館を楽しむ白鳥さん。「見えないから大変」の言葉がしっくりこない」https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5d75fda2e4b07521022f1c41


全盲」の美術館愛好者、白鳥建二氏の話。「晴眼者、つまり「見える人」との対話を通じて、作品を見る」。


「自分は全盲だけど、展覧会を鑑賞したい。誰かにアテンドしてもらいながら、作品の印象などを言葉で教えて欲しい」と頼んだ。それは、美術館という“見える人々”が中心となる世界のドアを、一人の盲人がトントンとノックした瞬間だった。

しかし、電話の相手は戸惑った様子で、「そういったサービスはしていないんです」と答えるばかり。あっという間に閉まりかけたドアを前に、白鳥さんはめげなかった。

「長年“障害者”をやっている自分には、そんな対応は折り込み済みでした。だから、『そこをなんとかお願いします』と頼むわけ。すると、『電話を折り返します』という展開になって、最後には『じゃあどうぞ』ということになりました」

最初に門戸を開いたのは名古屋市美術館。美術館スタッフのアテンドにより、「ゴッホ展」の作品を三時間かけて巡った。

鑑賞が終わったとき、予想外のできごとが起こった。アテンドした人が、「ありがとうございました」と白鳥さんにお礼を言ったのだ。

「びっくりしたよね。どうしてお礼を言われるんだろう? お礼を言うのはこっちなのに」

その人は、こう続けた。

「いままでこんなにじっくり作品を見る機会はなかったから、とても楽しかったです、ありがとうございました」

そのとき実は相手も一緒に楽しんでいたんだと気がついた。


こうして、白鳥さんはいくつもの美術館を訪ね歩くようになった。大半の美術館にとって、白鳥さんのような視覚障害者の出現は想定外だったため、その都度、趣旨や希望を説明し、理解してもらう必要があった。そんな美術館の対応も含めて、白鳥さんにとっては新鮮な経験だった。

「今までで二十ほどの美術館に電話をかけましたが、完全に断られたのは1館だけ」というので、確率としては全く悪くない。

そして、「見える人と作品を見る」という行為を通じて、「見える」と「見えない」の間にある壁も少しずつ取りはらわれていった。そのきっかけになったのは、名古屋の松坂屋美術館で経験したあるできごとだった。

その日の展示は印象派の作品で、アテンドしてくれたのは美術館スタッフ。一枚の絵を前に、「湖があります」と説明を始めた。しかし、そのあとに「あれっ!」と声をあげ、「すみません、黄色い点々があるので、湖ではなく原っぱでした」と訂正した。その男性は何度となくその作品を見ていたはずなのに、ずっと湖だと思いこんでいた、と驚いた様子だった。

当の白鳥さんは、仰天した。

「ええ!? 湖と原っぱって全く違うものじゃないのって。それまで“見える人”はなんでも全てがちゃんと見えているって思っていたんだけど、“見える人”も実はそんなにちゃんと見えてはいないんだ! と気がつきました。そうしたら、色々なことが、とても気楽になりました」

実際に、私たち晴眼者が視覚障害者と一緒に作品鑑賞をすると、上記のような勘違いにたびたび気づかされる。普段私たちは、膨大な視覚情報にさらされているなかで、必要なものだけを無意識に取捨選択している。美術鑑賞においても同様で、作品を見ているつもりでも、実は見えていないものの方が圧倒的に多いのだ。

しかし、見えない人が隣にいるとき、普段の取捨選択のセンサーがオフになり、丁寧に作品を観察し、咀嚼し、言葉で再構築しようと試みる。そのなかで、「今まで見えなかったものが急に見えた」というユニークな体験が起こる。それこそが、見える人と見えない人が一緒に鑑賞するひとつの醍醐味だ。その瞬間に私たちは、「見える」「見えない」、「助けてあげる」「助けてもらう」、という固定された二項関係を超えていくのだ。


なかでも足繁く通ったのは、水戸芸術館現代美術ギャラリー(以下、水戸芸術館)である。そこでも「視覚に障害がある人との鑑賞ツアー『セッション!』」が立ち上がり、人気ツアーとなる。毎回ナビゲーターをつとめるのは2008年から水戸に居を移した白鳥さんである。

この『セッション!』の様子は、伊藤亜紗さんのロングセラー『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書*1にも描かれ、「筋書き無用のライブ感に満ちた」「見える人にも新しい美術鑑賞」と評価されている。

ところで、アートの中でも「現代美術」が好きというのはわかるような気がする。まあ、「あいちトリエンナーレ」に毎年行くような人*2はわからないけれど(笑)、そもそも現代アートの娯しみというのは、感覚の言語化というか「批評家のポジションに立」つことに存しているからだ*3。また、前意識的な事柄の意識化というのがそのままアートの実践であることは言うまでもない。