「反照-遊戯」

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)の続き。
「四方界」を巡って。


大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちは、おのずからおたがい一つの組になりつつ、一なる四方界の織りなす単一性にもとづいて、連関しつつ帰属しています*2。四者のおのおのが、それぞれの仕方で、残る三者の本質を反照し返します。そのさい、おのおのがそれぞれの仕方で、四者の織りなす単一性の内部で、それぞれに固有な本性へと、おのれを反照し戻します。このように反照させるはたらきは、模像を描写することではありません。反照させるはたらきは、四者のいずれをも明け開きつつ、それらの固有な本質を、単一に織りなされる固有化のうちへ、おたがい組み合わせて、出来事として本有化するのです。出来事として本有化し-明け開くこうした仕方に応じて反照させつつ、四者のおのおのが、残る三者のいずれに対しても、おたがい組になって遣り合います。出来事として本有化しつつ反照させるはたらきは、四者のおのおのを、それらの固有な本性のうちへと自由に解き放つのですが、それでいて、その自由となったものたちを、それらの本質上の組み合わせの織りなす単一性のうちへ結びつけて拘束もするのです。(pp.44-45)

自由な広野へ結びつけて拘束する反照のはたらきとは、固有化の織り合わせるはたらきに支えられて、四者のおのおのがそれぞれ契りを結ぶさいの、仲立ちをする遊戯です。四者のいずれも、それぞれの分離された特殊なものにこだわって硬直するということはありません。むしろ、四者のおのおのは、それらの固有化の内部で、一つの固有な本性に向かって脱固有化されています。このような脱固有化する固有化のはたらきこそ、四方界の反照-遊戯〔Spiegel-Spiel〕にほかなりません。この反照-遊戯を仲立ちとして、四者の織りなす単一性がめでたく結ばれるのです。
大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちの織りなす単一性を出来事として本有化するこの反照-遊戯のことを、世界〔Welt〕と名づけましょう。世界が本質を発揮しているのは、世界が世界すること〔welten〕においてです。この同語反復的な言い回しが言わんとしているのは、世界が世界するはたらきを、他なるものによって説明することも、他なるものにもとづいて根拠づけることもできない、ということです。それが不可能なわけは、私たち人間の思考のはたらきにそのような説明や根拠づけをする能力がないからではありません。むしろ、世界の世界するはたらきが説明不可能であり、根拠づけ不可能であるのは、原因とか根拠とかいったようなことが、世界の世界するはたらきにとってあくまで不適切にとどまる、ということによるのです。人間の認識作用がここで何らかの科学的説明を求めるやいなや、認識作用は、世界の本質を超出するどころか、世界の本質の下方へたちまち落ち込んでしまいます。科学的に説明しようとする人間の意志が、世界するはたらきの織りなす単一性の単純さにそもそも届くわけがないのです。個々ばらばらの現実的なものは相互のあいだで根拠づけられ説明されねばならぬ、とひとは思い込んでいますが、一なる四者がそのような個々ばらばらの現実的なものとしてのみ表象されるときには、この四者はその本質においてすでに窒息させられているのです。(pp.45-46)