「何ものかであるもの」

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)。


物という語は、西洋形而上学の用法では、とにもかくにもおよそ何ものかであるもの、を指しています。それゆえ、「物」という名辞の意味は、有るといえるものを、すなわち有るもの・存在者を、どう解釈するかに対応して変動します。カントは、マイスター・エックハルトと同じように、さまざまな物について語っており、物というこの名辞で、有るもの一般を言い表しています。しかし、カントの場合、有るといえるものは、人間的自我の自己意識のうちで経過する表象として立てるはたらきに対立する物象、つまり対象となっています。物自体とは、カントの場合、対象自体なのです。「自体」という性格は、カントの場合、対象自体が表象して立てる人間の側のはたらきかけと無関係に対立的物象である、という意味です。(略)そもそも対象とは、「対向して」という関係によって、表象として立てる人間の側のはたらきかけに対してまずもって立つのですが、そうした「対向」の関係がおよそ欠けている場合、「自体」という性格が帰せられるのです。「物自体」とは、厳密にカント的に考えるなら、私たちにとって何ら対象ではない対象、を意味します。なぜなら、物自体という対象は、対向性格らしきものを何らもつことなく、物自体に応答する人間の表象して立てるはたらきに対して立つ、ということになっているからです。(p.40)
哲学で使われている「物」という用語は「困難な立場に置かれている私たちのたすけにはこれっぽっちもな」らない(pp.40-41)。ただ、「ティングという古語の用法」のうち、「「集約する」という意味」は「私たちが考えていた瓶の本質に呼応するものがある」(p.41)。
ここで述べられているのには、ハイデガー通奏低音である、存在と存在者の区別*2
、西洋哲学は存在者にばかり注目することによって存在を隠蔽してきた、云々ということも含まれている。・