
- 作者:マルティン・ハイデガー
- 発売日: 2019/03/13
- メディア: 文庫
承前*1
マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)の続き。
この後では、マイスター・エックハルト*2が言及される。エックハルトは「ディンクという語を、神を表わす場合にも魂を表わす場合にも、同じように用いて」いる(p.39)。「最高で最上のディンク」である(ibid/)。
(前略)レスという古代ローマ語は、人間に何らかの仕方で係わり合ってくるもの、を指しています。係わり合ってくるものこそ、レスのレス的〔つまり実在的・現実的〕たるゆえんなのです。レスのレアリタス〔つまり実在性・現実性〕は、古代ローマでは、係わり合い〔Angang〕として経験されたのです。しかしローマ人は、そのように彼らが経験したものを、ことさらにその本質において思索したわけでは決してありません。むしろ、レスのレアリタスという古代ローマ語は、後期ギリシア哲学が受容されたことにより、オン〔on〕というギリシア語の意味で、表象して立てられたのです。オンは、中世ラテン語ではエンス〔ens〕と訳されましたが、これは、産出に由来する物象〔Herstand〕という意味での、現前的にあり続けるものを意味します。レスはエンスとなり、制作し、また表象して立てられたものという意味での、現前的にあり続けるものとなります。古代ローマ人によって根源的に経験されたレスに特有なレアリタス、つまり係わり合いは、現前的にあり続けるものの本質としては埋没されたままなのです。逆に、レスという名詞はむしろ、後代とくに中世において、エンスとしてのエンスをひとしなみに、すなわち何らかの仕方で現前的にあり続けるものをひとしなみに表わすために用いられました。たとえそれが、エンス・ラティオニスつまり理屈のうえに有るもの、のように、もっぱら表象として立てるはたらきに由来して立ち、現前的にあり続けるにすぎないものであっても、やはりエンスであり、レスであることには変わりません。レスというラテン語に関して起こったのと同じ事態は、レスに対応する古ドイツ語のディンクという名詞にに関しても起こっています。というのも、ディンクは、何らかの仕方で有るものをひとしなみに意味するようになったっからです。(後略)(pp.38-39)
*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/12/07/131653 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/12/11/110030 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/12/21/144257 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/12/31/075504 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/01/233833 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/06/155912 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/10/015605 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/01/12/150809
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20061009/1160366520 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/07/11/091920