「死ぬことができる」

承前*1

時間がかなり空いてしまったが、マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)の続き。
「天空」、「大地」、「神的な者たち」とともに「四方界」を成す「死すべき者たち」(「人間」)について;


(前略)人間が死すべき者たちと呼ばれるのは、人間は死ぬことができるからです。死ぬとは、死を死として能くすることです。死ぬのは人間だけです。動物は生を終えるのみです。動物は、死を死としてみずからの前にも後にも持つということがありません。死は、無の聖櫃です。というのも、いかなる観点においても決してたんなる存在者ではないもの、しかしそうはいっても本質を発揮しているもの、それどころか存在それ自身の秘密として本質を発揮しているもの、それが無だからです。死は、無の聖櫃として、存在が本質を発揮しているところを内蔵しています。死は、無の聖櫃として、存在を守護する山脈なのです。私たちが今いま、死すべき者たちを死すべき者たちと呼ぶのは――彼らのこの世の生が終わるからではなく、彼らが死を死として能くするからなのです。死すべき者たちとは、本質を発揮しつつ存在としての存在へとかかわる間柄なのです。
これに対して、形而上学は、人間をアニマルとして、つまり生物・動物として表象します。ラティオつまり理性が、アニマリタスつまり動物性を徹底的につかさどるときでさえ、人間で有ることは、生および体験的生のほうからあくまで規定されています。理性的動物は、まずもって死すべき者たちに成らなければなりません。(pp.43-44)