「婚礼」と「犠牲」(ハイデガー)

承前*1

マルティン・ハイデガー「物」(森一郎訳、森一郎編『技術とは何だろうか』、pp.15-60)の続き。


捧げることの全体*2をなす水にやどり続けているのは、水源としての泉です。その泉にやどり続けているのは、石の塊からなる岩盤であり、その岩盤にやどり続けているのは、大地の暗いまどろみです。その大地は(略)天空からの雨露を受け入れています。つまり、泉の水にやどり続けているのは、天空と大地の婚礼なのです。天空と大地のこの婚礼は、ワインにもやどり続けています。というのも、そのワインをもたらすのはぶどうの実ですが、そのぶどうの実を仲立ちとして、大地の養分と天空の太陽は、たがいに契りを結んでいるからです。水を捧げることの全体にも、ワインを捧げることの全体にも、やどり続けているのは、どちらも天空と大地なのです。ところで、注がれたものを捧げることの全体こそ、瓶の瓶らしさでした。それゆえ、瓶の本質にやどり続けているのは、大地と天空にほかなりません。
注がれたものを捧げることの全体は、死すべき者たち、つまり人間にとっての飲み物となります。飲み物は、彼らののどの渇きをうるおし、彼らの余暇の時間を溌溂とさせ、彼らの付き合いを晴れがましくします、他方、瓶の捧げることの全体は、ときとして、奉納として捧げられることもあります。注がれるものが奉納される場合、それは、のどの渇きをしずめるのではなく、祭りのお祝いに供えられ、神前をしずめるのです。この場合、注がれたものを捧げることの全体は、死すべき者たちにとっての飲み物ではありません。注がれたものは、父子の神々に献じられた神酒なのです。神酒として注がれたものを捧げることの全体は、本来的な捧げることの全体です。奉納された神酒を捧げるはたらきのうちで、注ぐはたらきをする瓶は、捧げるはたらきをする捧げることの全体として、本質を発揮しています。奉納された神酒とは、「注がれたもの」という意味でのドイツ語グス〔Guß〕の本来意味するところ、つまり供物と犠牲です。グスという名詞に対応する「注ぐ」という意味の動詞ギーセン〔gießen〕は、ギリシア語ではケエイン〔cheein〕ですが、そのインドゲルマン語の語源はグ〔ghu〕であり、これは犠牲にするという意味です。注ぐことは、それが本質的に成就され、十分に思索され、真正に述べられる場合には、献ずること、犠牲にすることである、それゆえ捧げることなのです。だからこそ、注ぐことは、その本質がやせ衰えるやいなや、たんにつぎ入れたり汲み出したりすることに成り下がりもするのです。(略)ともあれ、注ぐことは、たんにザーッと注入したり、ザーッとぶちまけたりすることではありません。(pp.30-32)