韓寒と郭敬明

楊駿驍『闇の中国語入門』*1から。
〈80後〉*2の作家としての韓寒*3と郭敬明*4について。
「軽狂」(p.143ff.)を代表する人物としての韓寒。


82年生まれの彼は、2000年に18歳にして最初の長編小説『三重門』(邦題は『上海ビート』)を出版しました。本書は多くの若者の共感を得て、単なるベストセラーにどどまらない社会現象を引き起こし、韓寒は80後世代を象徴するアイドル的な存在になっていきました。
彼はその小説の中でも、普段の発言でも、中国の教育制度を痛烈に批判しています。彼は大学に行かなかっただけでなく、高校*5も1年制で中退しています。彼からすれば、自分のような才能ある人間を不合格にする学校や教育制度に何の価値もなかったのです。(略)韓寒のそのような言動は「不穏重」、すなわち「行き過ぎている」「落ち着きがない」と述べられています。中国語において「经狂」は「穏重」の対義語です。後者の性質を持つ者こそ、リスクに満ちた社会をより確実に生き延びられると考えられていたのです。
しかし、彼は非常に才能豊かな人間でした。ベストセラー作家として着実に成長していったのみならず、カーレーサーとしても、歌手としても、さらに映画監督や雑誌編集者としても大活躍しました。彼のブログは中国のインターネットでもっとも詠まれたブログの一つでもありました。社会も大の核心をつき、過激に展開するその言論スタイルによって、一部では魯迅の再来とまで言われていたのです。
そんな彼は文学業界からの厳しい批判にもさらされました。しかし、彼はその特色でもある「经狂」なスタイルでブログで反撃し、「従来の文学という制度に価値などない、格好つけるんじゃない」などと文学業界の大御所に楯突いたのです。さらに、「もし自分が作家協会の会長になることがあったら、最初にやることは作家協会の解散だ」といった趣旨の発言もし、若者の支持を得ていきました。彼の実戦によって、「经狂」は単なる「軽薄さ」ではなく、むしろ悪しき旧習を打破するための「反抗」の姿勢と勇気を示していると受け取られたのです。
(略)中国社会が安定志向になっていくにつれ、その「经狂」は彼にさまざまな「麻烦(トラブル)」をもたらしました。現在の彼はほとんど言論や創作活動をしていません。彼が活躍した短い時期は、ある意味現代中国がもっとも自由だった時期ともいえるかもしれません。(pp.144-146)
もうひとりの「80後」の「スター」としての郭敬明について。

(前略)彼は日本のサブカルチャーの影響を強く受けながら、実に繊細な筆致で思春期の、恋愛を含めたさまざまな人間関係、世界との緊張感を描き出し、圧倒的な支持を受けたのです。その長編小説『悲しみは逆流して河になる』ははじめて学校におけるいじめを描いた作品でもあります。韓寒が反抗的で自由を強く志向するカウンターカルチャー的な青春を代表していたとすれば、郭敬明は悩み、傷つき、さまよう青春のイメージを象徴していたのです。(p.169)