シェーラ―(メモ)

荻野弘之、山本芳久、大橋容一郎、本郷均、乘立雄輝『新しく学ぶ西洋哲学史』という本を図書館から借り出しているのだけれど、或る意味詳しい。その記述は、デカルトとかカントとかフッサールとかヴィトゲンシュタインとかデリダといった「哲学史」におけるセレブたちだけでなく、相当にマイナーな哲学者たちにまで及んでいる。例えば、ヴィクトル・クーザンとかフェリックス・ラヴェッソンとかジュール・ラシュリエとか(Cf. 本郷均「二〇世紀哲学の端緒」、pp.205-206)。しかしながら、記述の仕方は簡潔すぎて、例えばベルクソンフッサールのテクストを読んだことがある人はそれを思い出して、首肯したり反発したりすることもできるだろうけど、これまでベルクソンフッサールの名前も知らなかったような大学1年生にとってはかなりわかりにくいのではないだろうか。実際に大学の授業とかで教科書として使用するのも難しいだろうなと思った。一般教養の授業を受ける学生さんは出てくる人名の多さにうんざりしてしまうかも知れない。専門科目の教科書としてはどうしても物足りない。
さて、19世紀仏蘭西の「スピリチュアリスム」からカール・ヤスパース*1までが言及の対象となっている上掲の「二〇世紀哲学の端緒」(pp.205-225)という章のマックス・シェーラ―*2についての記述から抜書きをしてみる。


シェーラ―の哲学は根底に心情(情動)を置く。特に重要なのは「愛」である。新カント派が問題としていた認識や判断、価値を、シェーラ―は愛という心情から再構築して捉え直す。人間にとって、情動的価値体験がまず直截的なものとしてあり、それは知覚や判断よりも根源的なものである。
現象学的他者論として重要な『共感(同情)の本質と諸形式』(一九一三/二三)においても、共感という現象を分析して、特に他者と喜び悲しむ共同感情の本来の意味での共感とし、その基底に愛が見て取られる。
そもそも、シェーラ―が遂行している哲学という営み自体、ギリシア語における字義通りの意味である「知への愛」に示されるように、有限な人間の人格が本質的なものへと向かう愛によって規定されているのである。こうして、シェーラーにとって根本的な学は、まずは情動的価値体験を扱うことのできる倫理学である。
倫理学は、根源的でア・プリオリな内実を有する価値を提示すべきものとされる。これは判断を主として扱う論理学とは全く独立しており、フッサール現象学が常に論理的なものへの配慮をにじませながら進むのとは異なる方向性を示している。
シェーラーは、この倫理学を、カントのような形式主義倫理学に対して実質的価値倫理学と呼ぶ。シェーラーにとって、フッサール現象学は、心情(情動)という世界との直接的な生き生きとした経験の内で、心情の志向対象である価値と関わることを可能にしてくれる方法であった。
(略)価値を感得するものは、自我ではなく人格である。人格は、世界の様々な対象を志向する作用において存在する諸作用の統一であり、中心である。ただし、人格は決して対象として捉えることができるものではなく、あくまでも作用の中で働いているものとされている。作用を遂行するさなかでのみ人格は、自分自身を体験することができる。(pp.216-217)

この人格概念は、これまでの感性と理性とを区別しつつ統一する人間観に対する批判となるものであり、遺著『宇宙における人間の地位』(一九二八)に結実するシェーラ―晩年の「哲学的人間学」を拓くことになった。この著作では、人格を中心とした精神の特徴が「世界開放性」に見て取られ、これが精神をもたない動物と異なる点であるとされる。動物は環境世界に没入しており、そこから自由になれないが、人間の精神は環境世界から自由になり、時間空間を越えた唯一の中心からその世界の全てを対象化できるとする。
シェーラ―の哲学は(略)最初から人間とは何かを問いとしてきた。この問題は、フッサール現象学の有する意識論的・観念論的な傾向とは異なる現象学の可能性を示唆している。また、哲学的人間学は、生物学に重心を置きつつ「脱中心性」の概念で人間を考察したヘルムート・プレスナー、精神を認めない「人間生物学」を提唱し、人間を欠陥動物と捉えて、この欠陥を補う形で文化の成立を考えたアルノルト・ゲーレン*3などによって批判的に継承され展開されている。(p.217)