社会科学基礎論研究会

 7月23日は社会科学基礎論研究会のシンポジウム。
 事前に明らかにされたプログラムを再掲する;


司 会:浜日出夫(慶應義塾大学
     中村文哉(山口県立大学
報 告:
(1)張江洋直(稚内北星学園大学
「シュッツが示す"Dasein"という事態とは何か
    ――シュッツ社会学の可能性へ」(仮題)
(2)平 英美(滋賀医科大学
「語りとそのコンテキスト
    ――A.シュッツのアクチュアリティ」(仮題)
(3)山田富秋(松山大学
「シュッツの志向性分析を「知覚の衝突」の観点から読み直す」
コメンテータ:本石修二(東洋大学・非)
        菅原 謙(中央大学・非)
 尚、平さんの報告のタイトルは、「ある難病患者にとってThey-relationがもつ意味〜A.シュッツのアクチュアリティ」に変更されている。また、ディスカッサントの本石さんが体調を崩し、最初は医務室、さらには病院へ行って点滴を受けるという事態になったので、当然議論には参加することはできず、用意されていた「シュッツというプロブレマーティク−−社会的世界の存在論/「公共性」の様態−−」というペーパーが代読されることになった(後日の情報によれば、本石さんは順調に回復に向かっている)。
 このシンポジウムについては、既に酒井泰斗さんが取り上げていて、熱い議論が盛り上がっている。ので、遅れて私が云々する必要はあるのかとも思うが、モノにせよ出来事にせよ、複数の異なった視線に曝されることによってのみ、その実在性が保証されるという意義はあるだろう。
 張江報告は、シュッツの「純粋な汝定位はその本性からしてもっぱら汝の現存在(Dasein)一般に関係するに過ぎず、汝の特殊な相存在(Sosein)には関係していない」というAufbauでの主張(「他者の一般定立」)に対するヴァルデンフェルスの「空虚な事実」だとする「批判」(p.1)に対する反批判というかたちを取っている。何故、ヴァルデンフェルスの「批判」は反−批判されなくてはならないのか。それは「志向変容による「社会的世界の現出論」」(ibid.)としてのシュッツの社会的世界論の根幹に関わっているからである。ヴァルデンフェルスが「他者の一般定立」に替えて「われわれの一般定立」を措定しているように、「自我中心主義」批判である(p.10)。それに対して、張江氏はヴァルデンフェルスの批判を拒絶するのではなく、「自我中心主義」を(シュッツとともに)引き受け、「志向性の社会学」という方向性を示唆する。問題はその目的が達成されているかどうかであるが、その成否を断ずる前に、張江氏の論をもう少し丁寧に追うことが肝要だろう。
 さて、張江氏の主張では、シュッツの「「社会的世界の構造分析」をそれとして可能にしている理論的地平」は、「「他者問題」あるいはそれへの応答」(p.2)である。「他者問題」については、2つの「アポリアに満ちた途」が考えられる−−「一方は、《他者の他者性》を蔑ろにし「他者は自我の単なる幻影と化」す。他方は、[「最初から他者との共同性を前提と」することによって]「他者問題」をそもそもそのはじめから無効化し、よって「他者性の謎を解く手がかりは見失われてしまう」(p.6)*1。しかし、シュッツはどちらも拒絶する。その「根拠」は「《他者への明証的な確信》」である−−「シュッツが自然的態度の構成的現象学を自らの学的な立脚点とするのであれば、むろん自然的態度において活きいきとはたらく《他者への明証的な確信》を脇に置くことはできないからである」(ibid.)。かくして、ヴァルデンフェルスの批判に対して、「「汝定位」においてすでにはたらく"Dasein"の相は、《他者が他者として、そこに在ること》への「客観的にして主観的なアプリオリな明証性」を端的に指示していると応えることができる」(p.10)ということになる。
 「他者問題」に関する「2つの「アポリアに満ちた途」」を拒むこと、「自我中心主義」を引き受け、「志向性の社会学」を目指すことには、「他者問題」と同じように根柢的な〈自己−世界問題〉というべきものが絡んでいる。「世界の各自的現出」(新田義弘)という条件である。「世界そのものが視点に拘束されて一定のパースペクティヴにおいて現出している」*2ということ(p.7)、或いはそのような仕方においてしか「世界」の現出は不可能であるということ。「他者を自我との等根源性において「われわれ」として弁証法的に止揚してしまう」ということは、この条件から目を逸らす、脳天気且つ不誠実な態度ということになるだろう。この条件を張江氏が引き受けていることが事態を複雑にしている。私にはこのことと「現存在」との繋がりが(少なくとも今の時点においては)よく見えていないのだ。「《他者への明証的な確信》」ということだけであるならば、「現存在」でなくとも、或いは「相存在」であってもかまわないようにも思える。多分、「現存在」にこだわるためには、さらに別の理路が要請されるのではないかと思われる*3
 思わず、長文の(それも「空虚」であるという危惧もある)コメントになってしまったが、それは一つには私が「現存在」への拘りや「志向性の社会学」という方向性を共有していると考えているからである。

 調査における「観察の観察」というスタイルを取った平報告は寧ろ規範理論的というか実践的な意味で興味深かった。つまり、(医療・福祉の専門職も含む)サーヴィス業はいかにそのクライアントに対して振る舞うべきかということ*4。それはさておき、報告の最初の方で、


 a)IがIであるためにはYouではなくTheyの関係が不可欠なのであり、b)Theyがあることによって初めてプライベートな関係であるWeが形成されるのである。
という木下康仁の言説が引かれている(p.1)。私にはこれってシュッツのいうTHey-relationなのだろうかというもやもやが(今に至るまで)つきまとっている*5。勿論、木下が間違ったことを言っているとは思わない。「純粋な汝定位」=「純粋なわれわれ関係」は(ヴァルデンフェルス風に言えば「空虚な」)極限概念であり、現実の社会関係は多かれ少なかれ「汝定位」*6であり「彼ら定位」であろう。矢田部圭介氏の整理に従えば、私たちは様々な親密性/匿名性の度合いの「彼ら関係」を生きることになる。ここで考察されるべきだったのは、We-/They-relationという差異ではなく、寧ろ「親密性/匿名性の度合い」だったのではなかったのだろうか*7。つまりは、より〈親密〉な類型性ではなくて、(「保険師」/利用者という)より〈匿名的〉な類型性に留まることの意味。ただし、平さんは上に引いた木下テーゼの後半部分、つまり「プライベートな関係であるWe」の存立をも問題にしているので、事は錯綜する。木下テーゼが置かれた文脈がわからないので軽々には言えないのだが、これは寧ろ内集団/外集団という差異、或いは排除の問題に関わっているのではないか*8。しかし、ここでは〈排除〉は(少なくとも)表立ってはいない。寧ろ問題は〈親密性は息が詰まるぜ〉ということなのだろうか。考えるべきことは尽きない。

 山田報告については、既に酒井さんが適切に纏めている。この報告で、山田さんは張江氏による批判を承認しつつ、「それではなぜ私は意識の志向性分析の道をとらないのだろうか、あるいは科学的態度の分析と、多元的現実のひとつである科学的世界の分析を、張江氏やシュッツ自身の分析によらずに、どのように解釈しようとしているのだろうか」(pp.2-3)と問う。その際、手がかりにされるのは初期ガーフィンケルの「知覚の衝突」というアイディアである。実際、報告はガーフィンケルの博士論文「他者の知覚」読解という仕方で行われる。少し抜き書きすれば、


 結論をひとことで言えば、私たちがワーキングの世界で行うことは、世界の境界を協同で構築しているということである。そして弧我(sic.)の世界である科学的な態度のレベルでは、いったん確立した世界をくつがえすことは非常に困難である。なぜなら世界の境界の変更は、協同的な構築過程を経なければ不可能だからだ(pp.3-4)。

 (前略)社会秩序とは限定された意味領域であり、特定の注意の様式とは社会的な操作であるということになる。そして行為者の意味は行為者だけが意味付与できるものではなく、いやむしろ、行為者だけによって意味付与することは不可能で、行為者と観察者とが同時に関わりながら、対象からなる世界、つまり限定された意味領域を作っていくことが明らかになる。ここで志向性の分析が、いつのまにか、相互行為的な分析へと変化してしまっている(P.6)。
ということで、ガーフィンケルによるシュッツ「改読」の是非は問わない。
 シュッツによる「活動」としての(それ自体は)ワーキングの世界に属する「科学」と「科学的態度」(「理論化活動」)の峻別の意義を申せば、アレントが「活動的生」の外側に「独居」の活動様式である「思考(thinking)」の場所を認めたことに匹敵するのではないかということである。「思考」という場所があってこそ、私たちは〈自己〉に引きこもることなくして〈社会〉から引きこもることが可能になるのだ。

 尚、菅原謙氏は山田報告の中で、「知覚の衝突」が問題となるのは、それがワーキングの世界の中で発生するからではないかとコメントしている。
 菅原さんのコメントで頷いてしまったのは、「限定された意味領域」について、シュッツは〈主観の中〉に、ガーフィンケルは〈主観の外〉に設定しているという指摘である*9。それから、菅原さんには、
 エスノメソドロジーは行為論ではない
という衝撃的な発言があった。その根拠は、エスノメソドロジーにおける「理由動機論」の欠如ということなのだが*10、たしかにエスノメソドロジーウェーバー流の行為論(行為の思念された意味!)からは遠ざかっているように思われる。それは、焦点が〈私語り〉、私に対する社会的世界の現出から出来事としての相互行為を達成するためにメンバーで使用される「方法」へと移行しているからだろう。しかし、メンバーによる動機の、特に「理由動機」の帰属というのは、エスノメソドロジーの重要な論点となっていたという気もするのだけれど*11

 ちょうど、ディスカッサントのコメントとパネリストのリプライが一巡したあたりで、突然建物が揺れだした。地震である。自宅に電話しようとしても、ケータイも家電も繋がらない。瞬時にして、〈パネリスト−司会者−ディスカッサント−オーディエンス〉という役割関係が吹き飛んでしまった。みんな、〈ただの人〉に還元されてしまった。そのうち、震源地は千葉県北西部だとか電車が止まっているといった情報が入ってきて、周囲の風景も変わっていない(建物も崩壊していないし、道路にはいつも通り車が走っている)ことも確認したりすると、また数分にして〈社会秩序〉は恢復し、「役割関係」も復元した。ただし、エレヴェーターは止まってしまったので、研究会が終わってから下まで階段を下りなければならなかったけれど。懇親会は「華興」。二次会は「宮島」。
 帰宅したら24日の1時を過ぎていたが、書斎はかなり悲惨な状態になっていた。寝室は全く無事だったので、取り敢えずそのまま眠ることにする。24日は午後まで部屋の片づけ(というか復元)。

*1:ここでは、新田義弘「現象学の展望」が引用・準拠されている。また、その後、張江氏によって参照されている松尾正の表現を使えば、一方の途は「他者を自我にとって対象として下落させ」、他方の途は「他者を自我との等根源性において「われわれ」として弁証法的に止揚してしまう」(p.9)。ところで、これはシュッツ−シェーラー問題でもある。シュッツ/シェーラーといえば、関森章子の意見も伺ってみたい気もする。

*2:新田義弘「自己性と他者性」からの引用。

*3:その一つの経路として、シュッツにおいて、何故に対面性が重視されるのかを、〈現前の形而上学〉を回避しつつ、考え抜くことがあるだろう。

*4:例えば〈うざい接客〉と〈うざくない接客〉との差異に関わるだろうか。

*5:ご本人も「もとより、木下の用語法は、シュッツのそれと異なるかもしれない」(p.1、註1)と断ってはいるのだが。

*6:そもそも呼びかけるためには、つまりコミュニケーションをするためには、二人称的に在る他者が前提とされなければならず、つまり、不純であろうが何であろうが「汝定位」がなされる必要がある。

*7:菅原謙氏は、平さんが取り上げているのは、They-relationではなくて「具体的なわれわれ関係」ではないかとコメントしている。

*8:たしか、司会の浜さんがそのように指摘していたように思う。

*9:ということは、ガーフィンケルの場合、世界現出論は放棄されてしまったということか。

*10:その反面、「理由動機」こそがシュッツ行為論の要諦となる。

*11:私がここで思い出しているのは、例えばポルナーの"The Very Coinage of Your Brain"とかである。ところで、"The Very Coinage of Your Brain"というのはシェイクスピアの『ハムレット』を出典とするものだけれど、これは福田訳「お前の気の迷い」だと、「理由動機」ということになるのだけれど、直訳して「お前の脳味噌が捏造したもの」とすると、「目的動機」が浮かび上がってくる。さらに、coinageを「通貨鋳造」と語源により忠実に訳すと、謀反の匂いがぷんぷん立ち上ってくる。