礼と仁(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20070201


インスパイアされて、幾つか思いつきをメモする。
礼は身体の社会的統御であり、マルセル・モース言うところの「身体技術(technique du corps)」の一環として考えられるべき*1。さらに、その人間学的基礎として、遺伝的プログラムによる環境世界の構成の失効とそれによる環境/身体の極度の複雑性に私たちが呑み込まれてしまうリスクが考慮されるべきだろう(Cf. ゲーレン)。或いは、人間のオムレツ化の阻止。
礼と仁の対立*2――伊藤仁斎荻生徂徠の対立? 礼を仁と切り離して強調する立場――『荀子』の学統は法家に繋がる。また、道家による礼の自然化の批判。仁に基礎付けられない礼は(カリタスを欠いた戒律のように)空虚な道徳的圧政に繋がる。同時に、仁と礼との関係を自明化することによる礼の自然化の危険(所謂中華思想エスノセントリズム。文化相対主義としての道家)。礼を強調することによる可能性――所作の演劇化。孔子とゴッフマンについては土屋恵一郎が何か書いていたような気がする。「自己のテクノロジー」としての礼? これについては誰か何かいっているか。

*1:モースの「身体技術」論文はhttp://classiques.uqac.ca/classiques/mauss_marcel/socio_et_anthropo/6_Techniques_corps/Techniques_corps.htmlで読める。また、 Le Portiqueという雑誌が”Marcel Mauss et les techniques du corps”という特集を組んでいることを知った(http://leportique.revues.org/sommaire774.html)。

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070210/1171089669