求められる存在

青山真治が他界したことを承けて*1、『東京公園』を借り出して、観た。観た後の、何というか、充実感と物足りなさが入り混じった感覚をどう表現したらいいのか、言葉が見つからなかった。
偶々、『東京公園』を語っている文章を見つけた;


編集KIM「まっすぐに見つめること。三浦春馬の『東京公園』」https://madamefigaro.jp/series/movie-love/220405-tokyokoen.html


主人公の「光司」(三浦春馬*2)を中心にして語られているのだけど、読んでみて、なるほど、と思った。
少し長いけれど、引用してみる;


常々思っているのですが、人には「傍観者タイプ」と「表現者タイプ」がいるような気がします。もちろん両方の要素を誰もが持っているのですが、それぞれの濃度が違う。作品での佇まいは美しき表現者ですが、三浦春馬さんは、キャラクターとしては傍観者タイプ、と私は思っています。
『東京公園』は、カメラ、つまり写真を撮ることが趣味であり、将来の仕事も写真に関わりたいと思っている大学生の光司(三浦春馬)が、周囲の人々に愛され頼りにされながら暮らす日々のなかで、恋や執着について静かに学んでいく物語です。
彼のひとり暮らしの家には亡き友人ハル(染谷将太)が幽霊となって棲み、ハルの恋人だった富永(榮倉奈々)はしょっちゅう光司の家に訪れ、光司のバイト先のカフェバーに血の繋がりのない義理の姉美咲(小西真奈美)が頻繁にやってきます。みな、光司との時間を心の底で求めている。安らぎを、他者に与える存在が光司です。そんな彼の元に、妙な依頼が歯科医から持ち込まれます。毎日子連れで東京の公園を散歩する女性(井川遥)を盗み撮りして、状況報告してほしい――。歯科医は、その女性に執着を抱いています。

光司は、美しさを纏い切れていない役柄です。本当は美しいのに、美しさをことさらに表現しない。だから美しいことに、自分自身も周囲も気づいていないかのごとく、平凡な空気感を纏っています。
そういう人のほうが、他者を傍観したり、他者の想いを受け止めるには適役なのだと思います。「きちんと傍観する」ことは、相手の気持ちを受け止めることとほぼイコールだから。
『東京公園』の登場人物たちは、居場所が定まらない想いの行きどころを探して、その想いのやり場に困っています。が、あくまでも品よく、自分のいたたまれなさを抱きながら、粘り強く過ごしています。ただ、カメラのファインダーを通して人々を見つめる主人公の光司だけが、自分の心に気づいていないのです、映画の途中まで。周囲の人々との時間と、みんなからまっすぐ見つめられることによって、光司はゆっくりと自分の心を見つめることに気づき始めます。

「光司」のキャラクターというのは、「横道世之介*3高良健吾)に近いといえるのだろうか。「傍観者」ということで想起したのは、ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン天使の歌』*4ブルーノ・ガンツ。ただ、『ベルリン天使の歌』はブルーノ・ガンツが「傍観者」=「天使」としての特権性を放棄して地上に生きることを選ぶという物語である。「天使」の視線は垂直だけれど、「光司」の視線は最初から水平である。『東京公園』においては、(「天使」のような)非この世的存在者として、「光司」の「友人ハル」の幽霊(染谷将太)がいる。「ハル」については殆ど語られない。どのような経緯で「光司」とつるむようになったのか? 何故死んだのか? 「 みな、光司との時間を心の底で求めている」という。「光司」は「安らぎを、他者に与える」存在なのだという。「ハル」と「光司」との関係では、「ハル」こそがそのような存在である。或いは、「光司」の原形としての「ハル」。