恋愛は能動的な経験ではない

奥田碩といえば、今や自動車というよりも「ゲーム」問題の専門家として有名になっているわけだが*1、恋愛についてもお詳しいらしい。「フラれ考 傷つきたくない、告白しない 未経験の若者急増中」と題する『毎日新聞』の記事*2には、「 「フラれた経験のない若者が多い。勉強の偏差値だけでなく、人生の偏差値を高めるべし」。日本経団連奥田碩会長(73)が、講演などで時々披露する失恋のススメだ」とある。たしかに〈大きなお世話〉だろう。
さて、この話を枕に振ったLeiermannさんのhttp://d.hatena.ne.jp/Leiermann/20060206/p1とそれに関連したhttp://d.hatena.ne.jp/Leiermann/20060208/p1であるが、そこには本源的とも言える勘違いが存在しているように思える。また、その勘違いはあの奥田碩も多分共有しているように思える。
ここで述べられている〈恋愛というものから総撤退する〉という意見というか決意に文句を差し挟むつもりは毛頭ない。というよりも、そのような文句自体が無効だろう。その言やよし。しかし、違和感は残る。それはどういうことかというと、私は私たちは本源的にそんなに能動的な存在ではないと考えているからだ。〈恋愛というものから総撤退する〉ということは、私たちが自由意志によって、〈恋愛〉に参入でき・退出できるということを前提としている。つまり、私が〈恋愛したい〉と思えば〈恋愛〉でき、〈したくない〉と思えば完全にやめられるということだ。奥田碩にしても、「失恋のススメ」しているわけだが、論理的に言って恋愛をしなければ「失恋」はできないわけだから、「失恋のススメ」=恋愛のすすめといっていいだろう。他人(奥田)から「すすめ」られて、本人がその気になれば、〈恋愛〉はできるということだ。ほんとにそうだろうか。
恋愛は欲望であろう。それがどのような欲望なのかということはここでは詳論はしないし、この議論の文脈では重要ではない。ただ、それは性欲や親密性への欲望とは関連しつつも、必ずしもそれらには還元できないとは言っておこう。性欲や親密性への欲望を満たすことは恋愛を通さなくとも可能であるからだ。また、〈萌え〉という情動の在り方とも違うものだろう。問題はその欲望の稼動の仕方である。呼吸や摂食のようなベーシックな欲求とは違う。恋愛などしなくても生命に別状はないからだ。では、私の自由意志の支配下にあるのかといえば全く違う。たしかに、その欲望は私の内から湧き出てくる。しかし、私が自由意志で命令したり禁止したりできるわけでもない。端的に言って、私は為す術がない。恋愛感情の起動、それは私が自らの内に全く手に負えない他者を抱えてしまったようなものだ。私はそれに対しては完全に受動的なポジションにいることになる。恋愛はたしかに他人を志向する。しかし注意しなければいけないのは、私が恋人との関係に於いてコンティンジェンシーを生きるという意味での受動性ではないということである。それは後の話であるし、社会的行為というのはみなそういうものだ。ここで問題となっているのは、能動/受動或いは主体/客体という対立に先立つ本源的な受動性であるといえる。
何もこんなややこしい議論をしなくても、私たちは自然言語の使用を通じて、そういうことを心得ている筈である。英語ではfall in loveというし、日本語でもそれを翻訳したものなのかどうかは知らないが、〈恋に落ちる〉という。つまり、英語でも日本語でも、それは〈事故〉或いは〈遭難〉として観念されているわけだ。「病」ともいうし、ケイト・ブッシュは「猟犬(hounds)」に喩えた。
そういうわけで、恋愛を「すすめ」てみたり、〈総撤退〉を宣言してみたりするというのは無茶な話だとは思う。恋愛は、意志に関わらず、生起するかもしれないし、生起しないのかも知れない。そんなの、私を含めた誰も知る筈がないのだ。したいしたいと念じつつ、その気が全く起こらないことに苛立ったり、したくないしたくないと念じつつ、起こってしまって、その火消しに躍起になったり、何れにしても、自己内闘争の様子を呈してくる。
因みに、恋愛がポップ・ミュージックや文学に於いて特権的なテーマとなるのは、恋愛に於いて私たちの能動性・主体性のリミットが露呈されるからであろう。これを書きながら、私は文学ではなくて、映画、つまりゴダールの『こんにちは、マリア様』とヴェンダースの『ベルリン天使の歌』を思い出しているのだが。
恋愛とある意味で似ているのは、宗教的な神秘体験かも知れない。様々な宗教の教祖伝の類を読むと、大方の場合、神秘体験が生起しても、後に教祖と呼ばれることになる主体の最初のうちの反応は戸惑いであり、違和感なのである。病気なのではないかとか化かされているのではないかとか。