「恋愛」について何度目かのメモ

http://d.hatena.ne.jp/sync_sync/20070605/1180974208


http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080711/1215794225で知ったのだけれど、既に昨年書かれたものだった。それが最近になって、コメントが幾つもついて注目されている。曰く、


中学受験
高校受験
大学受験
卒論発表
大学院受験
修論発表
就職試験
とその男は試験と面接を順調にこなし、世間で言う一流企業に就職することが出来た。

が、その男には問題があったのである。

童貞なのである。

就職したら、同期も結婚を決めた彼女持ちの男ばかり、先輩や上司は既に既婚者。

社内の会議に出てみると、既婚者の印である左手の薬指に指輪をした人がずらりと並ぶ。

だが、その男はどう結婚したらいいのか、いやそれ以前にどのように女性と交際したらいいのかを知らなかった。

セックスをすれば子供が出来ることだけは大学時代に友人から借りたAVで知っているが、

実際にセックスをする方法、セックスの相手をして貰えるような女性をどのように見つければいいのかを知らなかった。


だが、就職までマニュアル生活で生きてきたその男は彼女の作り方、セックスの仕方も何も分からなかった。

服はイトーヨーカドーユニクロ。髪は1,000円床屋。

マニュアル生活でここまで来てしまったその男は今後、その会社でやっていくことは出来るのだろうか?

不安に思う日々である。

先ず、「セックスの仕方」とかは(例えば)『ふたりエッチ』などを読んで下さいとしか申し上げられないだろう。
ところで、以前「恋愛」について書いたものを備忘録的にメモしておく。

恋愛は欲望であろう。それがどのような欲望なのかということはここでは詳論はしないし、この議論の文脈では重要ではない。ただ、それは性欲や親密性への欲望とは関連しつつも、必ずしもそれらには還元できないとは言っておこう。性欲や親密性への欲望を満たすことは恋愛を通さなくとも可能であるからだ。また、〈萌え〉という情動の在り方とも違うものだろう。問題はその欲望の稼動の仕方である。呼吸や摂食のようなベーシックな欲求とは違う。恋愛などしなくても生命に別状はないからだ。では、私の自由意志の支配下にあるのかといえば全く違う。たしかに、その欲望は私の内から湧き出てくる。しかし、私が自由意志で命令したり禁止したりできるわけでもない。端的に言って、私は為す術がない。恋愛感情の起動、それは私が自らの内に全く手に負えない他者を抱えてしまったようなものだ。私はそれに対しては完全に受動的なポジションにいることになる。恋愛はたしかに他人を志向する。しかし注意しなければいけないのは、私が恋人との関係に於いてコンティンジェンシーを生きるという意味での受動性ではないということである。それは後の話であるし、社会的行為というのはみなそういうものだ。ここで問題となっているのは、能動/受動或いは主体/客体という対立に先立つ本源的な受動性であるといえる。

何もこんなややこしい議論をしなくても、私たちは自然言語の使用を通じて、そういうことを心得ている筈である。英語ではfall in loveというし、日本語でもそれを翻訳したものなのかどうかは知らないが、〈恋に落ちる〉という。つまり、英語でも日本語でも、それは〈事故〉或いは〈遭難〉として観念されているわけだ。「病」ともいうし、ケイト・ブッシュは「猟犬(hounds)」に喩えた。

そういうわけで、恋愛を「すすめ」てみたり、〈総撤退〉を宣言してみたりするというのは無茶な話だとは思う。恋愛は、意志に関わらず、生起するかもしれないし、生起しないのかも知れない。そんなの、私を含めた誰も知る筈がないのだ。したいしたいと念じつつ、その気が全く起こらないことに苛立ったり、したくないしたくないと念じつつ、起こってしまって、その火消しに躍起になったり、何れにしても、自己内闘争の様子を呈してくる。

因みに、恋愛がポップ・ミュージックや文学に於いて特権的なテーマとなるのは、恋愛に於いて私たちの能動性・主体性のリミットが露呈されるからであろう。これを書きながら、私は文学ではなくて、映画、つまりゴダールの『こんにちは、マリア様』とヴェンダースの『ベルリン天使の歌』を思い出しているのだが。

恋愛とある意味で似ているのは、宗教的な神秘体験かも知れない。様々な宗教の教祖伝の類を読むと、大方の場合、神秘体験が生起しても、後に教祖と呼ばれることになる主体の最初のうちの反応は戸惑いであり、違和感なのである。病気なのではないかとか化かされているのではないかとか。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060315/1142441815

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さて、恋愛というのは、whoの露呈ということではやはり特殊というか、或る意味で特権的なケースといえるだろう。つまり、whoとしての私の存立が、さらにはそのような私にとっての世界の存立が別の1人のwhoとしての私=他者によって(のみ)支えられる(と思い込んでしまう)からだ。それだけではなく、私が私の身体的境界を越境して(勿論一時的ではあるが)他者と合一することが目指される。勿論、その時には一時的ではあれ、私の同一性は勿論のこと、世界そのものも消去されてしまうわけだが、私−世界の消失において、私−世界がたしかに実在することがありありと示されるという逆説的事態。さらに、そうした合一による私−世界の消失への期待とかつてたしかに合一したという記憶が恋愛という出来事を稼動していく。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061109/1163080989

何れにせよ、世俗的なパースペクティヴから見れば、恋愛というのは、とんでもないもの、災難のようなものといえよう。小説『嵐が丘』ではまさにこの災難にコスモロジカルな、或いはハルマゲドン的な意味が与えられているわけだが。恋愛に憧れるというのは、言ってみれば、地震も颱風もない穏やかな地方に暮らす人が地震多発地帯や颱風銀座に憧れるようなものだ。天災と違うのは恋愛という災難が地理的なロケーションに関わりなく襲撃するということだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061109/1163080989
さて、「非モテ」を自認する人たちの言説で気になるのは、特定の「恋愛」でなくて、「恋愛」一般が語られているということだ。特定の誰かに惚れてしまって、それでどうしましょうということではないのだ。恋愛というのは誰かに強烈に惹き付けられて、どうしてもその誰かと合一したいという強烈な欲望が自らの裡に涌き上がってこないかぎり、開始されることはない。しかも、その欲望は発生(happen)することしかできないのであって、意図的に発生させる(make happen)ことはできない。だから、「彼女の作り方」といっても、「彼女」というのは作るものではなく、自然に出来てしまえば出来るし、出来なければ出来ないとしか言いようがないだろう。勿論、誰とも接触しなければ、特定の誰かに惚れてしまうということも発生しない。だから、第三者的に言えるのは、〈出会いの場〉に積極的に進出しろということくらいなのではないか。そういう場というのは、今も昔も、学生ならば、ゼミ、サークル、学生運動、バイトなどだろうし、さらに研究会・学会活動、ヴォランティア活動、市民運動、宗教活動、(ネット関係のオフ会も含む)趣味の集まりなどなのだろう。ただ、(管見の限り、「非モテ」系の言説ではあまり触れられていないようだが)恋愛関係が開始されることにとって真の困難は出会って親密な関係が築かれた後にこそある。私見によれば、親密な関係を築くことはそんな難しくはない。しかし、そこから恋愛関係に飛躍するのは様々な意味で困難だと思う。特定の人との、一緒に映画やアートを観たり、一緒に食事をしたり酒を呑んだりという生温い関係はとても心地よいし、また癒されるものだ。この生温い心地よさに浸ってしまうと、却って恋愛関係は開始されない。それは〈惚れる〉ということとは違うし、また〈惚れて〉いたとしてもその強度が弱ければ、そんなことを告白したら今の生温くて心地よい関係が完全に破壊されてしまうのではないかというリスクを前にたじろいでしまう。だから、やはり恋愛というのは誰かに強烈に惹き付けられて、どうしてもその誰かと合一したいという強烈な欲望が自らの裡に涌き上がってこないかぎり、開始されることはないということなのだ。