犬ではなく猫

柿川鮎子「江戸時代の作家、曲亭馬琴が行っていた野良猫の譲渡活動」https://news.yahoo.co.jp/articles/435ebed412c744f0f620a99c4e625342f5bfa846


八犬伝』の曲亭馬琴*1は「犬」よりも「猫」に縁があったようだ。


嘉永元(1848)年5月、林の中にいた放浪猫が子ども達に追われたのか、馬琴の家に入って来た。見ると可愛い雌猫で、お腹が大きく懐妊している。馬琴の長男の嫁・路(みち)と、長女の幸(さち)が見つけて、かわいそうに思い、猫を保護して飼育することにした。

馬琴宅で大切に保護された猫は、翌6月、元気な子猫を4頭も産んだ。ころころと小さな子猫が母親の傍で遊んでいる姿は、馬琴の心を慰めた。

7月、馬琴は源右衛門宅に母猫と子猫を里子に出した。出した後、馬琴は猫の母子がどうなっているかを心配したと日記に書き残している。その後しばらくして、「猫の母子が移転先の家になじんだ」という知らせを聞いて、心から安堵した。

8月に九段北に住んでいた娘の幸(さち)に子猫を里親に出した。さらに赤白の雄猫を、親族の清右衛門の家に里子に出した。この時、馬琴は猫が里親宅で幸せに暮らせるよう、鰹節を添えて子猫といっしょに渡している。

松村儀助という人物も「馬琴宅に子猫がいる」という噂を聞いてやってきた。馬琴の家族が儀助に対応して、赤雑毛の雌猫を、ボラの開きと一緒に里子に出した。

単に里子に出すだけでなく、鰹節やボラの開きを一緒に出しているところが、馬琴の愛猫家ぶりを表している。「里親先でも大切に飼って欲しい」という馬琴の猫を愛する気持ちが伝わってくる。


4頭の子猫のうち、最後に残った雄の子猫は、馬琴宅で優秀なネズミ捕り猫に育った。10月にはネズミを3匹も捕ったとちょっと自慢げに日記に残している。

(略)

しかし、残念なことにこの猫は翌年の3月に、里犬に追われて行方不明になってしまう。あちこち訪ねて猫を探し回ったが、見つからなかった。馬琴も路も落胆し、いなくなった猫を惜しがった。

その様子を見た岩井政之助が馬琴のために猫を一匹、馬琴宅に連れてきた。3匹もネズミを捕る猫が居なくなって、嘆いている様子を見た人が同情して持ち込んだのか、さらに子猫がまた増えた。

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もともと馬琴は動物好きで特に鳥には一時、夢中になった。100羽以上も飼育し、鳥の図鑑も書き残している。子猫が生まれて困った人から「馬琴先生のお宅ならば、猫を引き取ってくれるかも」と思われても不思議ではない。

馬琴は執筆料だけで生活することができた、日本で初めての作家だった。有名な南総里見八犬伝の他、出版された作品は江戸じゅうの人々を魅了し、当時は有名人だった。「馬琴先生が猫を失って悲しんでいる」という噂はすぐに広まったに違いない。そうして子猫がまた、馬琴宅にやってきた。

馬琴宅に子猫がいるという噂を聞いた煮豆売りの半兵衛が「ぜひうちに子猫を譲って欲しい」と願い出た。馬琴は大切に飼育して欲しいという願いを込めて、今度は食べ物ではなく、紋縮緬の首玉をつけて、子猫を譲渡している。

縮緬とは縮緬地に文様を織り出した高級布地で、庶民にはなかなか手の届かない、高価な布地である。それを猫のために、惜しげもなく首玉にしたところも、馬琴の猫愛を感じさせられる。

人間が子猫を持ち込むだけでなく、猫自身にも好かれていたようで、馬琴宅にはどこからともなく猫がやってきて、子猫を産んだ。そうやって生まれた子猫の1頭に、馬琴は「仁助」という名前をつけてかわいがった。