絵巻(メモ)

承前*1

小峯和明「バイユーのタピストリーと絵巻展」『図書』755、2012、pp.10-15


曰く、


絵巻は中国にはじまり、東アジアにひろまった書物の形態である。当初は布を使っていたであろうが、紙の発明とともに急速にひろまったに相違ない。紙を横に貼り継いで巻き取り、必要な時に広げて見る。最も簡便なスタイルであり、文字文化と切っても切れない関係にある。書誌学では冊子(冊紙、草紙、草子)に対する巻子と呼ばれ、書物の二大形態であったが、時代の変化とともにすたれていった。ぱらぱらめくって前後を自在に見られる冊子に比べて、開いたり巻き取ったりする作業は手間がかかるからで、それが印刷文化の進展にともなって消えていくのは必然であったろう。巻物はいわば近代に捨てられ、忘れられた書物といえる。
絵巻という語彙がそれほど古くはないこともそのことを裏付ける。「絵巻」の用語を使った比較的早い例は、たとえば滝沢馬琴の随筆などであり、近世も下って巻物自体が減ってきたことと関係していよう。木版刷りの整版本が普及して、書物といえば冊子本が当たり前になった時代にこそ巻物形態に目が注がれるようになる。巻子本が珍重になって、絵巻もあらためて注目され、その用語が出てきたということであろう。中世の頃まで、絵巻をさす言葉はたんに「絵」であった。つまり、巻物という形態がほとんど問題にならないくらい常識であったことを示しており、紙絵といえば、巻物が常態だったことを意味する。絵入りの冊子本も絵巻と同じように制作されていたと思われるが(『源氏物語絵巻』の浮舟)、古い時代のものは現存しない。隆盛を迎えるのは、いわゆる奈良絵本と呼ばれる類の、十六世紀から十七世紀にかけて中世末期から近世初期あたりからであろう。
しかし、書物としての巻物は消えても、絵巻の意義は今日ますます高まっているように思えてならない。なぜなら絵巻こそ、この開き巻き取る特性を最大限に利用した絵画にほかならないからだ。巻くことによって、絵に動きが出て、見る者を次々に展開する画面にひきつけてやまない。絵を描く側も、巻くという行為を充分計算しつくして作っている。一枚の絵画とは根本的に機能や意味が異なる。絵巻は中国や朝鮮半島ほか漢字文化圏のひろがりにあわせてひろまったはずだが、日本でとりわけ発達した。物語を読むのに絵画とあわせて見るという享受法がごく自然にあった。中国の絵巻も近年注目されるようになってきたが、日本の広義の物語絵巻の質の高さ、多岐に及ぶジャンルのひろがり、残存率の高さ、同じ絵巻の模写本や異本の多さは群を抜いている。溶解が深夜にパレードする有名な『百鬼夜行絵巻』*2はいったいどれくらい作られたか、いまだに全貌がつかめないほどだ。絵巻は前近代の、映像をまだ人類が手にしていない時代の欠くべからざるメディアであった。それが今日マンガやアニメ文化につながることも明らかであろう。(pp.14-15)
絵巻と「アニメ」ということだと、高畑勲が『十二世紀のアニメーション――国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』(徳間書店、1999)という本を書いているんだね(p.10)。
それから、絵巻の「疎開」の話が興味深い。『伴大納言絵巻』と『吉備大臣入唐絵巻』と『彦火々出見尊絵巻』は戦乱を避けて、若狭国小浜の「新八幡宮」に「疎開」していた。江戸時代になると、小浜城主の酒井家に召し上げられ、『彦火々出見尊絵巻』は酒井忠勝によって徳川家光に献上されたが、後の江戸城火災のために焼失した*3。『吉備大臣入唐絵巻』は昭和初期に酒井家から手離され、ボストン美術館に収められ、『伴大納言絵巻』は1980年代に手離され、出光美術館の所蔵に帰している(p.13)。